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2012/01/18(水)
補足・・・
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昨日の文章を読んで・・
自分にとって 本を読む作業とは 自己との対話である。
作者・登場人物・読者 の絶妙な三角関係。
つまり・・作者(司馬遼太郎氏)は登場人物(主に幕末の長州志士達)に 歴史的事実を交えて 自らの理念を重ねて描き出している訳で それを読む読者(自分)は その時に置かれた状況下(時間が有り余っている今日)で読み解いている訳なのである。
昨日の結論で抜けていたのは 初期の志士達(吉田松陰 等々)に対しての見方が変わったということです。
初期の彼らは 意外(?)というか・・ 素晴らしい!! ・・かといって 会津・新撰組等を否定するものでは無いけど(^^ゞ
今の社会は 初期の彼らの屍の上に成り立ってきたもので その成果を引き継いだ物達(伊藤博文・山形有朋・・等々)が 後世に悪影響を及ぼしているだけのことである!!! 但しこれは あくまでも主観論ですけど (-_-;)
即ち 何故”明治維新”というものが起こって、、現在に対して どのような影響を及ぼしているのかということを 個人々が認知することによってのみ、今の この閉塞しきった社会を変えられると信じるものである! \(◎o◎)/!
あ・・・ 急に話は変わって・・
今 テレビでやってたけど、 ある政治家が、自らのブログで述べていたように・・ とあるが、
こういった ブログって 公式のものなんでしょうか・・ね (-_-;)
元来 情報発信できる者(文筆家・等)は限られていたわけで、その発信源になりたい者は それなりに その道の勉強を経て プロにならなければならなかったのに・・ しかも その筋(政治家)の人ならば 公式の会見で述べればいいのに・・
(こういったケースは 芸能・スポーツの有名人達の場合も同じで、 それを取り上げるマスコミは そのブログのコメントを 公式文章の如く取り上げる)
いったい”プロフェッショナル” って・・?! という 我々(音楽家)についても言えることである。
勝負がはっきりしているスポーツの世界は まだ解りやすいですけど・・
この様な プロとアマチュアの垣根が無くなってきたことによる”弊害”については
*** 例えば 自分が関わっている 音楽業界のそれ(一部分)について・・ ***
プロの作詞家・作曲家 がいて、その作品を’形’にして歌い上げる プロの歌手がいる・・ という関係があって、 そこに、更に付け加えると、その”歌”を演出するための プロのアレンジャーがいて そして それらを 現場で音にする プロの演奏者達がいた。 そこを経なければ レコード発信して 大衆にアピール出来る術が無かったからである。
今なら 自作自演で 誰でも簡単発信が出来てしまう・・。
どおりで、薄っぺらくなってしまう訳である ((+_+)) 歌う方にとっては わずらわしさが無くなって楽だろうけど・・。
昔のそれは 作詞・作曲・歌手の間で 常にセッション(切磋琢磨の格闘)が為されていた。。
プロの歌手とは 他人の作品を、自分の為だけで無く 創った人達の為に 形にする必要があったし 作り手は 歌い手の為に(声の音域などについて)熟考しなければならなかった。
そして それらを繋ぎ合わせる意味においての プロデューサーの存在・・。
今の営みは 売れるための’公式利用’に過ぎず、 普遍的な価値には高まらないであろう。。
当たり前だ・・・ 所詮 アマチュアの集まりなんだから・・
ということで、自分は歌番組を全く見ない ((+_+)) 一方 ポップカルチャーとして(捉えている訳でもないだろうけど)楽しんでいる人達がうらやましくもある (^^ゞ
色々気付くことは 両刃の剣” なんだろうな・・
かく言う小生も このように意見を書いてしまっている訳で・・
でも 誰でも閲覧できる このような場では なるべく主観的な事を述べていないつもりである。 それでもこうなってしまう訳で(-_-;)
ちなみに本心のそれらは 勿論 日記(小論文)のような形で 広告の裏の余白に(パチンコ屋のチラシが多い)書き溜めていますけど・・ (^^ゞ
あ・・・ 大分 論点がずれてきたのでこの辺にしとかないと。。
因みに 今読んでいる その本は 花神(全3冊)、世に棲む日日(全4冊)
更に余談ではあるが、今の自分のモデルとなっているのは 炎立つ(高橋克彦著)の”藤原経清”である。。
興味がある方は 是非!! と お勧めしたい・・
プロの文筆家ではない 自分が発するのもなんですが・・ (^^ゞ
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