|
2013/10/10(木)
妄想族 (@_@;)
|
|
|
さて、 ”関ヶ原”の最終編ですが・・
実は 司馬氏の原作によるこの作品、、 うかつにも まだ原作を読んでないんですよ (^^ゞ
最後のワードは ”バクチ”
関ヶ原のそれを 家康はバクチと呼び、 男は(僕は動物の雄はと捉えますが)バクチを打つもんだ・・と。 バクチには相手が必要だし、バクチを打つからには 最善の策を施す・・
そして、戦というバクチを打つからには 勝つために打つ! その為に 策を弄するんだと・・
ちょっと待てよ・・
音楽の本番と同じではないか!?
僕の、ここ一番のライブに於ける心境と同じなんです・・(^^ゞ
そのバクチに勝つ為に(ベストの演奏が出来るようにする為) 様々な策を講じて、、 そして そうする事によって ”サイを振る”作業が出来るのであって、
絶対という事は絶対に無い!!
というパラドックスの中、その確率を上げる為にも・・
そして、後は、天命を待つ!!
***** *****
鶏が先か卵が先か・・
32年前に見たこの時代劇 原作者司馬遼太郎氏の・・
無意識に僕の中に入って来て居て、 現在の自分の”論法”の根拠となっている・・
32年の年月を掛けて 自分の中の血となっているのである!!
いやはや 驚きであるとしか言いようがありませんね・・\(^o^)/
ホントに身近な所に 芸術ってのは ”存在”するんですね(*^_^*)
蛇足ですが、、 このドラマ
石田三成サイドから描いた 初めてのものであるらしく、 既にそれ自体もそうなんですが、、
最後の家康の言葉・・
「徳川家にも かの 三成の様な人材が是非欲しいものだ・・」
ここに 司馬氏の中での パラドックスが 多分に含まれている様に思われる (^^ゞ
どうも・・ これは 相性とも言えますが、 司馬氏の作品とは 自分にとって、 その物語の背景・人物 を通して、作者本人と 直接 会話をしている様な気がするんです・・
そして それは 32年前から やってたんですね・・ 無意識のうちに・・・
恐るべし!! です。。
そして 本題に戻りますが、 原作を読まずに 32年かけて出来上がった ”物”
同時の最強のメンバー達 (三國・加藤・丹波・三船・森繁氏・・・) 現場のスタッフ達も含めた、 彼らの広げに広げた・・ 最小公倍数の結晶たるこの”作品” 僕の考え得る中では 最大の物です。 (後、緒方拳氏が入れば 尚・最強だったんですが・・ これは個人の好みです(^^ゞ )
我々が 楽譜を演奏する時に ただの 白黒の五線譜上に書かれた音符を 個人の主観によって どれだけ色を付けた演奏が出来上がるのかってのと同じ事です!!
彼らは、本に書かれた 白黒の文字を 形にしているのであって・・
そうやって、 大きく広がった最小公倍数が 一本のテープの中に 最大公約数として実在している訳で・・
さて、、 この状況で 果たして 原作を読んだら・・・ と思うと、 (>_<)
原作を読んだ後でも、 想像を超えるドラマだったと思えれば・・
これは 僕にとっては ”乾杯〜ぃ” って事です。 僕が認めた役者さん達よ あっぱれ〜 という意味で・・。
パラドックスとしては、 自分の中の ”妄想”レベルが まだまだなんだな・・ という敗北感はあるんですが、 それでも それは 何かまた 清々しいような気分です〜
・・ あ 、、 このことすら まだ 妄想の話しですが・・(^^ゞ
逆に、自分の妄想が勝ってしまって、ドラマが ちんけに見えてしまったら、 僕の”認めた”という能動的事実が 見誤ってた事になり、 これまた 残念な事に・・・ (+_+)
最も複雑なるものは、 場面場面のフォルダーとセンテンスに区切ってしまって、 そこに対して 意味付けをしてしまう・・ というもので、
それをすれば・・ というより それをしてしまったら、既にそこには 意図・意識が有ってしまうもので、 つまらないものとなってしまう事でしょう〜 (-_-;)
・・・ という自分が この原作を読む難しさよ〜 (^^ゞ
おしまい
|
|
|