野川紀行
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2017/10/29(日) どうして・・?!
そこには必ず歴史を為す!! ”必要論”っていう 〜だから!!
が在るのが常です。。

私がこの様に ”面倒臭い” 事に為ってしまってるのにも それがありまして・・(^^ゞ


それは、

外から為される 「ねばならない」 ってのが在ったからなんです!!

ベースの立ち位置としての・・


たった 一小節に4拍しか弾く事を許されて無いのに・・

一拍目:ルート音
二泊目:
三拍目:ルートに関連する音
四拍目:次の小節の導音

つまり 理論上は 二拍目だけが 泊まる事が出来る(自由になれる)音なんです!!

だから 二拍目ってのを 四小節単位ってのを 大きなくくりにする事によって、二小節目の四拍に置き換えたり、


ここからは 「自分なりの ”一拍” という 拍観念」が生まれたり、、

つまり・・ アングルチェンジの一種です。

自分の中だけのアルゴリズム→♪ ってやつです (^^♪


でも、とどのつまり・・

ベースというモノに課せられたモノ・・ってのは、
その形(バロック・オペラを源流とする)を使っている以上(大前提の元では) 位置付けされ 命題化されているのも事実でして・・(^^ゞ

それは 社会的背景・・ ルネサンス(相の復興)

よりテーマを明確に!!


の為の 通奏低音に繋がる ”2声”としての位置付けなんです。

しかも! それは、あくまでも テーマを明確化させる為の!!

一番大事な 相関関係なんです!!

テーマとルートの2声で十分なんです!! 先ずは・・

でも あくまでも順番としては ”テーマ”が先なんですね (^^♪


全ては 有るが故の”距離”なんです!!
もしくは 在るが為の!!


こうして、 だから・・テーマ自体ってのの正体を知る必要があった訳でして・・

必要に必要を重ねて来て居る以上 先祖返りが必要だった訳でして・・

古代ギリシャはもとより・・フェネキア人・・シュメール人・・等の西洋系・・

・・というより 日本系だと ”文字”としての形・・は残ってませんからね・・ (-_-)

この理由・必要論を体系化すると→ ”村社会” に行き着きます。

現実的には 残されている文字ってのは 大陸にしか無く・・

以後は史家さん達の集大成の受け売りになってしまうのですが・・


建武中元二年:57年 漢委奴国王印 後漢の光武帝が送った物として当てはめられてるのですが・・

小生にとっては モノの自然な”見方”として 土地の形状が変わっていない事を大前提とした ”見た目”ってのを
視点・始点とするんです。。

見た目の順序・・ってのに置き換えられます。

やはり、順番ってのは 事を為すのに大切な要素であり 過程でもあるからです。


見た目の位置的な位置付けとしての・・
後漢と朝鮮半島という地理的かつ 朝鮮半島に対しての出先機関という位置付けとしての・・ 楽浪郡→帯方郡→高句麗 

ちょっと時代がこちら側に来ての・・

景初2年:238年 三国志の時代に含められる・・
日本では 卑弥呼・邪馬台国の時代です。

余談ですが 251年に司馬懿・没
→12年後 司馬昭 蜀を滅ぼし 
更にその子 司馬炎が 2年後に皇帝の位を奪って晋国を建国(265年)
そして、呉国を滅ぼし 280年に三国統一 に至る。

238年ってのは 239年に北魏が曹叡が死んで 帝位が変わった年に当たるんですね・・

つまり ある種の混乱が在った時に・・でして・・

そんな時に 金印なんかを与える余裕があったのか?

また そこに刻まれてる文字ってのも謎でして・・

卑弥呼に送ったと云われてる 三角縁神獣鏡 と合わせて・・


何せ 今の日本を診ても解るように 元ネタが有れば パクるのは巧いですからね・・ 日本人ってのは・・(^^ゞ

しかも 合わせて、上手い事・・話しを作るのも巧いですからね・・(^^ゞ


そこで 見た目ってのが要素としては重要なパーツになる訳でして、、

いきなり 内陸部から 航空便で送られてくるわけが無い以上、
どこかを 通って・・という ”過程”が存在してる訳でして、

それが 地図を診れば解るんですが、
楽浪郡の・東→ 新羅を経て・・ ってのか、
中国の南方を通って・・ なんですね ( `ー´)ノ

その ”経路” ってのが 事実を為すには大事なんです。

中国南方について 呉越同舟・・春秋時代に関わる 越の国です。
日本で言う所の ”越(こし)の国” との関連です。

稲作が伝わり、通って来た場所であり、
独特の風習・・入れ墨 ってのが その銅鐸の中にもハッキリ 描かれていて、
それは 私も 出雲に行った時に この目で ハッキリ 確認して来ました!!

四隅突出型墳丘墓の点在ヵ所・・にも関連した 出雲地方との関わり、、

日本史上最大の謎?! 継体天皇との関わり・・

これら全て 単体に非ずして・・ 必ず 繋がって居るンですね\(-o-)/


これが ”物語(モノがたり)” の正体なんです \(^o^)/


然るに・・

昨今の事情を診るに・・

航空便はおろか・・ ダイレクトにその場から 目の前の”ここ”に登場させる事が出来、

即ち インターネット等をツールにした ”そこ”と”ここ”の違いの無さは 事実を為すに当たる 
”地点”というモノの位置関係を 曖昧にするものであり、

結果・・ 結果に対しての筋道を漠然としたモノへと昇華させてしまうハメに・・


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