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2017/04/04(火)
自分の言葉で・・
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色の三原色にも関わりがあるのですが、、
いざ!! の時の その前の瞬間ってのは ”真っ白な” ニュートラルな状態である事が最も望ましいんです。。
もちろん そこに至る過程では 紆余曲折・・ 色々な思惑から来る多色があるのですが・・(^^ゞ
真っ白とは 言い換えれば 意識して 無意識の域になる!! 事を意味し、
そこには 他念を一切関わらせない・・
いわゆる 常識からの逸脱!! をも意味するんです!!! <(`^´)>
その態度が 能動的であるならば、 「頭を真っ白にする!!」 であり、
受動的であるならば、 「頭が真っ白になる!!」
という言葉に置き換えられます。。
今朝の新聞に、 万葉集の言葉から得られる感想を描く・書く・・ ってのがありましたが・・・
ここにこそ この国に於ける教育の問題が見て取れるんです!!
微分出来るんです!!
書き手は 未だ 社会に属して居ない 子供達・・
日本語では ”子”の単数に対して ”供”がくっついて複数に為って居る所に、、 さらに ”達”を足してる・・
それが いつの間にか (使われている社会の時間を経て・・)通用語として使われてるのには 違和感はありますが・・(+_+)
”八百万の神々” みたいなもんですかね・・ "(-""-)"
一体 幾つの ”我々” って範囲を広げて お墨付きを得たいのか?!?!
日本の社会に於いては、一人称単数の”I”ってのは ホントに無くて・・
そこには 必ず?! ”我々の” って ”こちら側” ってのが在る事の表出とでも言いましょうか・・ "(-""-)"
「そろそろ大人になったんだから・・」 って言葉に含まれる意味で、、
日本のそれは 「幼児言葉を発するのではなく、大人らしい! 社会に適応した”言葉使い”をしなさい!」 ってなもんで、、
英語圏に於けるそれは 「ちゃんと自立した、自分の言葉でしゃべりなさい!!」 ってなもんなんです。。
自分の言葉でしゃべる!! ってのには 必ず その言に対しては 責任を負う!! という態度が必要であり、
責任を負う! 為には まず その社会に対しての距離を取る!!
いわゆる ”契約” ってのが不可欠なんですね・・ ( `ー´)ノ
そこには 個人の中での ”矜持”ってのが必要であり、 契約によって 社会との距離を限定する事によって そこに 真摯な態度ってのが生まれる訳なんです。。
日本の社会には まず それは在りませんね・・
・・ と言うか それを必要としないんですね・・
これについては 日本語自体に 解は含まれて居て、 しかも ”地点” 世界から見た 地政学的にも・・
また、境界線を引かなくても 河川や山によって 対外的に区切られてしまった結果・・
”村制度”なるモノが出来てしまってる事が 事実なんですね・・"(-""-)"
未だ見えぬモノへの畏れ・・ 引きの強い体質・・ のけ者・村八分・いじめ・・ その村独自の隠語 → ”方言”
方言については その地方地方に於ける ”音”を使っての伝達であり、 その結果・・ であるとも言えるのですが・・
一方 その村独自の既得権益・・ 例えば 金山であったり、秘湯であったり、、
その ”在処” を 我々だけで共有する為の!! ってのがあったりすると思うんです。。
これは 実際に 東北に行った時に 現地の人達が言ってたのですが、、
実際問題 我々に置き換えて観ると、、
確かに!!
それは 必要!! だと思うんです。。 私は!!!
ちょっと前までの 芸能界での”逆さ言葉” って隠語も そのうちの一部だと思うんです (^^ゞ
それを使う方が ”我々” にとっては とても有効だったからなんです!!!
これは 実体験から来てる感想です。
例によって また・・ 話が逸れてしまいましたが・・
そんな 実社会に 未だ属して居ない筈の子供が画いた(新聞に載せられた一部の作品ですが・・)作品を観てビックリ!! だったんです!!!
これでは なるほど!! 同じ顔の人間が出来上がるはず!!! なんだと (-_-メ)
幼児から中学生辺りの子達だったんですが、、
中年の・・ この私の方が むしろ よっぽど自由な感想が”翔ける”事を確信したと同時に・・
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