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2017/07/29(土)
その3
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直感的・直情的な観念的モノである日本語ってのは、 見て直ぐ解る・・ 形容詞的なモノ・・
これが 円グラフ的なモノと”同じ” って事です。。
円グラフは 最もパッと見て パット解り易いですからね・・(^^♪
ただし、、そこには 最大公約数的な要素が多分に含まれて居て、 棒グラフや折れ線グラフの様なモノが積み重ねられた結果がそれである・・
という事を肝に銘じて置かないと、、
直感的である事は 多分に 客観的視点を置き去りにする結果に為る・・ という例えられた事実が在るんです。。
昨今の政治事情を診ても解るように・・ これも例えられた事実の一つです!!
先日 テレビで 津軽弁を話してましたが、 これがまた さっぱり解らないんです・・ (-。-)y-゜゜゜
テロップに カタカナ・ひらがな で表記されても、
つまり 音を表してくれても さっぱり解りませんでした・・ "(-""-)"
所が そこに ”漢字”を入れてくれることによって 途端に意味が解るようになりまして・・
そういう事です!!!
表意文字の正体です。。
海外の大体の言語は 音を形にしたものであるのに対して、 日本語のそれは 形に音を当てはめたモノであるからです。。
最初から最大公約数的なモノから為って居る・・
そこが問題なんです。
顔が見える範囲・・ 村社会的な範囲でしたら 非常に有効なツールなんですけど、時点と地点が違う状況に於いては 非常に不利なツールに為ってしまうんです "(-""-)"
なるべく無機物化させて 客観的なモノへと仕立て上げる・・
円グラフでは無く 棒グラフで考える!! これが必要なんです!!
そこで登場するのが エウクレイデス::
所謂、”ユークリッド幾何学” です <(`^´)>
”原論”ですが・・ 私はもちろん そのモノを読んだことはありませんが・・ (-_-)
モノの考え方について、
透視図法などは、モノを描く上では 非常に理に適っており、 この前 この目で見て来た ダヴィンチの遠近法も その手法を取り入れていました (^^♪
余談ですけど、 ダヴィンチは ある子供の人物を正面から描く時、 実物大の人形を作って それを あらゆる方面から観察し、描写し、
そして 正面から描いてたそうな・・ ( `ー´)ノ
話しは戻って、形式言語ってのは モノの考え方として・・ 四つのジャンルに分類され、 集合論・モデル理論・再帰理論・証明論、ってやつらしいのですが、
よりエンコード(符号化)する為に、代数幾何・数学 ってのを必要とした!! ってのが大事です \(-o-)/
ちなみに数字について、
古代ギリシャでは 1 は数では無く、2,3,4・・が数に為るための初期設定:アルケー?! の様なモノで、
0 に関しては 1世紀頃 インド人が初めて使ったらしいのですが、 意味としては ”空の”の意味だったらしく、今の概念で使われ出したのは、同じインド人が7世紀から・・ らしいです。。
この 初期設定:ってのは 意外に大事でして、
何も無い!! ってのの設定・・ ”エーテル” ってのを アリストテレスも設定してますが、
有る!! という事は 無い!! という事を設定する必要がある事を例えてまして、、
西洋では オール・オァ・ナッシング ですが、
日本では 有るも無いも 同じ 状態に於けるモノとして捉えられ、
つまり 無い・・ という状態が(も) 有る って事です。。
その事に気付いて居れば 最初から テーゼとしては在るんですよね・・ (^^ゞ
再び話しは戻って、 原論についてですけど、、
彼が使った棒グラフ・折れ線グラフ?! について、、
小生の座右の銘?! にもなってるんですが、、
「線は、幅の無い長さである」 「線の端は点である」
って言ってるんです!!!
円グラフに比べて 随分と微分化され 無機物化されたモノである!! と思うんです <(`^´)>
逆に言えば 日本人にとって 最も苦手とする所です。。
特に数字に弱い所なんか・・・
時間に追われる・・ ノルマに追われる・・
ジャズでも 拍に追われる、テンポについて行けない・・ってな感じで・・
我が日本、古より哲学無し・・ と言った 西田幾多郎氏の言が 私には響きます \(◎o◎)/
限定的命題を課し、数字を使う事!! →限られた範囲内での”解”を得る為に。
こんな簡単な事なのに・・ (-_-)
まぁ 自分の言葉で ”訓読み” 出来ないとダメでしょうね・・ (-_-メ)
自分の頭で”同じ”モノを造り 考える。
そうすると 安易に言葉を発する事が出来ないでしょうね・・
音楽の現場では、 本当に解って居る人は 簡単に 「難しい」とか 「その曲知ってる」 って言葉を発しませんから・・ (-_-)
あ・・・ 飲み会などのぶっちゃけた場に於いては別ですけどね・・ (^^ゞ
小生が多言を発するのは、多言を要するだけの事であって、
そのままの形を相手に なるべく ”同じ”モノとして為さしめるためには 他言を多言に要するって事です。。
そのモノを決めるのはそのモノに非ず・・だからで、、
たったの一小節を説明するのにも 数時間を要するのも また必然なんです。。
・・・ という事で 最近は 平均7時間程度の練習量に落ち着いてますが、、
数字にすると、
ある1フレーズを 一分間に40回吹いたとして、 一日10時間 それを続けても、
2億回に達するのには 27年掛かる計算になりました・・
さもありなん・・ "(-""-)"
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