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2005/12/02(金)
内面的抽象主義者の謝罪
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僕は自他ともに認める『どっちかっていうと』論理的な人間だ。 あくまでそのレベルだが、おそらくその一部分が極めて捨象的なのだろう。 論理的とは相反してこの数年間、内面的には『煙』に対する憧れが自分の核になっている。 一見すると矛盾しているように思えるこの2つの性質が今日になって、当然一致した。不思議な感覚だ。
その鍵となったのが「捨象」という言葉だった。 生きていく中で出会う無数の言葉たち。 言葉自体は常に存在し続けているのに26年間生きてきて、その瞬間まで出会うことがなかったことが不思議なくらいのものを僕は特にブラインドワードと呼んでいる。 「捨象」もまさにそれだった。 抽象と捨象はまさに表裏一体で、生活の中でもわりと身近にある概念のはずなのにその言葉を知らなかったが故にもどかしい思いをしていた事柄達が、一気に解放されたような感覚だ。 「捨象」が僕にもたらした影響とは、つまるところ「抽象」の意味の修正だった。 僕は今まで「抽象」を誤解していたことを「抽象」に対して純粋に謝罪したい。 ホントにゴメンナサイ。 思わぬ誤解をされる経験をしたばかりの僕はなおさらに「抽象」に対して罪悪感を抱いてしまう。 一般には抽象⇔具体(具象)と認識されているが、それぞれの意味を理解すると実はそうでもない。 ある事象を捉え方という観点ではむしろ大きな意味で類義語といえるかもしれない。 改めて、意味を理解せずに言葉を使うことは恐ろしいと思った。
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