日々是魂知己
〜自分勝手の極み〜
我、思う。故に知己あり。
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2006/01/28(土) そこはかとなく
今朝、家から駅までの6分間で考えたことをフィルターなしで活字にしてみよう。

通勤途中の『こもれびの橋』から朝日に照らされる山並みを遥かに見て―

ここ2年ほどで景色を見て感銘を受けることが多くなった。
年取ったなぁ。
でも、何でもかんでも年のせいにするのは『逃げ』の姿勢だ。
じゃあ何で以前より風景を美しいと感じるのかな。

それはたぶん『あるべきものがあるべくしてあるがままにそこにある』という一見当たり前にも思える凄く難しいこと。
自然にはその難業を自然にやってのけるエネルギーがある。
それが説得力になる。
自然物に対して「自然に」という表現を用いるのもおかしな話だが、逆に言うとそれができるものを我々は『自然』と呼ぶのかもしれない。
そう考えると、ほとんどすべての人間がやはり『自然』とは別の存在で、自分はそれに憧れる。
その魅力に気がついたときから自分は「年を取った」ということになったのだろう。

ここで敢えて「年を取った」という表現を使ったことが次に自分の中で沸き起こった問題に繋がる。

老人は往々にして「年を取る」という言葉にネガティブなニュアンスを含んで使う。
彼らは長い年月を経て多くを得て、また多くを失っていく。
失うことと得ること、得ることと失うこと、それはまるで抽象と捨象の如く実は一つの事象であって、見る角度が異なるに過ぎないのだ。
彼らが人生を振り返るとき、手に入れてきた素晴らしい戦利品を思えば思うほどに失っていったかけがえの無い自分のかけらを悔やむことだろう。
そして彼らの尊敬すべき点は『それでいい』ということを知っていることなのだ。

もちろん『それでいい』も多聞にもれず、逆もまた然りで『それでいい』を考えるとき『それじゃダメだ』も考えなければならない。
かのVAN HALENは後期に「BALANCE」という作品を発表したが、まさに『バランス』という要素は誰もが通る道で、目的地に向かうときも帰ってくるときもその道を通ることは欠かさないほうがよい。
毎日自分の天秤を調整しながら生きることは、『後悔』への唯一の対抗策と成りうるのだ。

―ここで駅に到着。


引越しに際して家から駅までの距離に遠すぎず近すぎないという前提を置いた。
引越しから1ヶ月。ようやくその時間が機能し始めたようだ。

2006/01/25(水) ごちゃごちゃしてきた。・・・整理します。
結局、在るはずの無いものを求めているんだから、たまには疲れるよ。
「休んでなんかいられない」と無理はせずに俺は休むよ。
俺はダレるよ。
俺はサボるよ。
突っ走るのは性に合わない。
自分のペースはよく知ってるつもりだ。
それより少しだけ上のペースでいく。
人生短いんだから急がないと!
なんては俺は考えない。
短いからこそのんびりやろう。
まぁ長くてものんびりやるけど。
嫌なものからは逃げるし、好きなことはやりたいだけやるし、そのほうが楽しいし。
自分勝手に生きて自分勝手に死ねば、それでいいのか?
まぁいいんじゃない?
欲求至上主義でいいんじゃない?
人間なんてそんなもんだよねぇ。たぶん。
そういや一平くんも
「疲れたら木陰で一服」って歌ってたな〜。
意外と気が合うじゃない。
そうちゃんは
いつも「丁度良い湯加減」を求めてるし。
ゆるい3人がセカセカしてたらなんか嘘だよな。
やっぱり、ぶらぶらやるのが『こんこんちき』だな☆

自分に嘘ついてると、そのうちホントの自分が分からなくなる。
そんな人を何人か知ってるから、俺はそうなりたくないし、好きな人たちにもそうなって欲しくない。
だから好き嫌いがハッキリしてる人は凄くイイ。
社会不適合でも俺は好きだね。
じゃあ俺は何が好きなんだ?
・・・。
結構いろいろある。(近々プロフィールを更新します。)
逆に嫌いなものはあまり思い浮かばない。
オメデタイ人間なのか?
たぶんそうだろうなぁ。


なんだこれ?
結局何が言いたいんだ、俺!

頭の中を整理するつもりが逆に混乱してきた。
もうちょい整理できたら続きを書きます。
AM5:30ていう時間が悪かったかな。
今度は昼間にやりますので。

2006/01/16(月) 一言
数少ない自分の尊敬するある人物と、年にわずか数回だけど将棋を指す機会がある。
彼は俺の将棋の師匠であり人生の大先輩であり、俺の遺伝子の1/4を構成する漢である。

平たく言うと祖父だ。

今年の正月に恒例の指初めを行ったときのこと。
序盤は定石どおりの手順に従い淡々と勝負は進み、中盤の探りあいが激化し始めたとき彼は俺の持ち駒に目をやりおもむろに一言、こう言った!

「歩の無い将棋は負け将棋。」

将棋の世界では当たり前の格言だが、これは将棋の話ではない!人生。
そう、彼は今まさに将棋を通じて俺に生きる術を教えようとしている!!と感じた。

まったく、『味な真似』をしてくれるぜ!
師匠、さすがです!
肝に銘じます。

余談だが将棋界には歩に関する格言が妙に多いように思う。
「金底の歩は岩より堅し」「桂馬の高飛び歩の餌食」など。

歩を制する者が勝負を制する。
ジャブを制する者が世界を制する。

この日の一勝はとても価値のあるものになった。

すべての道は人の道に通ず。

2006/01/12(木) 白の衝撃!
リリーさんを筆頭とする人間研究家たち。
その道に身を置いて間もない俺にとって大きな衝撃を与える事件が起こった。

一言で言うなら「白」を見た。

そう、白という色は存在を感じさせずそこに存在するのだ。
他の何者にも染まらず、それでいてすべての色を含んでいる。
ある意味で、それは「黒」とまったく同じ存在意義を示すし、ある意味で対極の属性を示す。
今まで黒は意外と身近に存在していた。
黒が目に付きやすいのは、おそらく世の中全体が淡い色を示すからだろう。

真っ黒もいいし、
真っ白もいい。

色々あるから色々いい。
大切なのは、自分の色を知り誇りを持つこと。

そういやメタリカは黒を目指したなぁ。
男だねぇ〜

2006/01/08(日) 唐突に「枕草子」
春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎは少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり。まいて雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。



これはズルいよ。
〜三つ四つ、二つ三つなど〜って表現は激熱。
これでもか!ってほど散々に四季を絶賛しておきながら最後の最後にマイナス面をさらりと言ってのけるシュールさも絶品。
凄い女だ。。。


※ズルい:自分には到底真似できない素晴らしさを表現するときに用いる言葉

2006/01/03(火) 原点
表裏一体的な考え方が好きで、実際に世の中のほとんど総ての物事に当てはまる一つの真理だとも思う。
何かにつけて「逆もまた然り」と思う。

「過去を振り返ることはしない。」と言う人もいるが先に進むためには後を把握しておくこともやはり必要だと思う。
今、生まれ育った町でこの文章を書いている。
地元の空気や人間は自分の原点を教えてくれる。
俺は松山がすごく好きだ。
明後日にはまた東京。
今年も前を向いて歩ける気がする。

今年は町田ラブ全開で行きます〜☆


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