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2007/01/19(金)
この筆が折れることは無い
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カーターさんの言うとおり、音楽は絵を描くことと同じだ。 全ての表現されうる芸術は作品を媒介にイマジネーションによって再構築される。 無論、再構築するのは鑑賞者自身である。 放たれた芸術は、その後再び表現者の手に戻ることは無い。 それらは鑑賞者の中に1つの形として残るのみである。 (多くの場合それはヴィジョンに近い形を採る。)
そして私は危惧する。 暴走した科学技術や哲学なき文明は、蝉の羽をもぎ取る子供のように容易に、残酷に、人からイマジネーションを奪い去る。 イマジネーションの欠落した人間は、知らず知らずのうちに再構築という行為が困難になっていく。 恐らくは彼らが自身の中に美しい絵を描くことはないだろう。 それは神の次に死ぬのは芸術なのかもしれない、ということ。 神のいない世界に生まれた私には、もはや「神の不在」を憂うことはないが芸術の死を恐れることはできる。 数百年後に訪れるかもしれない【「芸術の不在」を憂うことのない時代】を止めることはできる。
想像してみて欲しい。 イマジネーションを失った人たちが街に溢れるときを。 死んだ魚の目で最短距離を事務的に動く人々を。 直線や不自然に滑らか曲線が支配する無機質な世界を。
ロボットが人間に近づくのではない。 人間がロボットに近づいている。 そう思えてならない。
(しかし、最近のロボット工学の研究では、外部刺激に対して90%しか反応しないロボットが実験的に作られているという。 それはつまり人間の証、すなわち【ダメさ】をロボットに与えるということだ。 確かにドラえもんはかなりダメなロボットだが、本当の未来にもドラえもんのようなダメなヤツがいてくれるなら、ひとまずは安心だ。)
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