日々是魂知己
〜自分勝手の極み〜
我、思う。故に知己あり。
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2007/11/02 なんとも穏やかな気分であることよ
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2007/10/25 浅き夢見じ 酔ひもせず

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2007/10/25(木) 浅き夢見じ 酔ひもせず
物事に造詣を深める上で、【分けて考える】ということが非常に重要になってくる。

人間が関わるほとんど全てのものは深部に矛盾を孕んでいるね。

その矛盾を2つに分けて考える。

矛を知り、盾を知り、その両者が統合されるまでひたすら見つめ続ける。

ステレオグラムのようにね。

像が浮かび上がる瞬間に平衡感覚が失われるような感覚がある。(あの感じ。切り替わるッ!!て感じで好き。)


考え方のポイントは「相対すると言えども任意の2点は必ず同一の直線上に存在する」ということ。

そのことを理解した上で、正と負を等しい距離から煙の気持ちで傍観する。

意識して「見よう」とすると一つの焦点に固着してしまって決して見ることができない。

あくまでも煙の気持ちで。


あとはしばらく時間が経って、風でも吹けば煙は消えて再び輪郭がハッキリしてくる。

そうなれば、それまでとは違った焦点に新たな輪郭が浮かび上がる。

現実には何も変わってないのに矛も盾もなくなって不思議と球体に近いものが目の前にあるってワケだ。

それが、きっと【悟り】と言われる視点に近いんじゃあないだろうか。


俺が興味をそそられるのは・・・
『万物をその視点から見たとき、人は生きていられるのだろうか。』
という疑問。

2007/10/24(水) 体内時計よ
くるわばくるえ!


ところで、久しぶりに公式を見出したのでメモ。

テクニック−センス=いも

これを【芋掘りの定理】と名づけよう。

じゃあ逆はどうだろう?

センス−テクニック=無力

要するに両方揃ってこその名プレイヤーってワケだな。

精進、精進。



ふむー。最近、考え方が凄く現実的だ。

2007/10/23(火) 葉 散る 季節
乾いた風が吹いております。

脱退やら解散やら、続出しております。

そしていよいよ、出かけるときには上着を着るようになりました。

2007/10/22(月) 朦朧とする意識の中で
連なる刹那の中で

連なる光と闇の中で

連なる季節の中で

連なる思い。

緩やかに連なる変化を区切るのは決意のみ。

その時、私は朦朧とする意識の中で連なる煉瓦を一枚の壁に感じた。

2007/10/21(日) 戻力による形状記憶
いわゆる【形のないモノ】がその時々に示す表情に小皺を見つけたなら、それは自分が年をとったということなんだろうねぃ。

2007/10/17(水) くっ!!
外を歩いていてキンモクセイの香りがする度に、芳香剤のイメージが頭をよぎる・・・

そして、その度にどうにもやり場のない怒りを覚える。

自然を自然のままに、楽しめないことがこれほどの苦痛とは!!

2007/10/16(火) その気
さて、書くことないのがバレバレな日記が続いておりますが、そんなことには目をつむってやるというのが、大人の優しさであると信じて書きますか。



【1番よりナンバー2】が信条のホルホースの如く、1番はすっ飛ばして2番目にやらなきゃならないことを先にやってしまうのがダメ人間の特徴でもあります。

例えば、僕が日記を書いているということは、他にもっとやるべきことがあるという証拠なのです。

別に日記は書かなくてはならないということは決してないのですが、自分の中では既に義務感にも似た不思議な感覚があります。



僕は先程ダメ人間と言いましたが、正確に言うと弱気なダメ人間のことでして、その時、その類に分類される人間の心理はこうなっているのです。

1番をボイコットするという罪悪感にいたたたたまれなくなって、やるべきことをやる方向に力は向く(その辺が弱気)のですが、やはり1番をやるまでのエネルギーには至らず、二番目に着手することでちょっとダメから解放された気分になる。

と、まぁこういう流れです。

実際に1番に向き合うのは、リミットに雁字搦めにされたときのみで、そうなると締め切りの迫った漫画家さんのように全身全霊を込めて作業に没頭します。

リミットとは、人間を焦りに追いやり怒りや苛立ちを生む魔物ですが、ダメ人間には欠かせないシロモノなのです。



ちなみに、、、
最終のリミットをも突破してしまうダメさを持っている人は真のダメ人間と呼ぶに相応しい人物だと思います。
自分には多少その気があるので、要注意です。

2007/10/15(月) MMW
個人的マイルスブームの予感を語っておきながら、一向にハマる気配のない日々が続いております。

密かなブームはMMWです。

ジョンスコもそうですがコレだ!!っていう感じがない、“そこはかとなく”良い雰囲気が好き。

メデスキさんばりに引き倒すキーボーディストと出会ったら、「MMWみたいだね〜。」って言われるくらいモロなジャムバンドを作りたい。

Galacticにしてもそうだが、キーボーディストさえいればッ!!っていう段階で目論みは泡と散るのは残念でならない。

誰か、ニューオリンズの空気を身に纏ったキーボーディストを紹介してください。

2007/10/14(日) 落書きタイム。
夜も更け、地下の防音室で宇宙創造の瞬間を描く作業に追われる3人。

どうでもよいようなことにひたすら時間をかけ、どうでもよくないことを後回しにする3人。

町田発ダメトリオバンド「こんこんちき」。

いつかはメセニーさんの様に壮大な絵を描けるバンドになるとイイね。

地道に描いていこう。

2007/10/13(土) ダメだ!
入力が不足している様子。

コレではたいした出力は望めない。

2007/10/12(金) あ゛〜
あ゛〜

あ゛〜

あ゛〜

秋です。

2007/10/10(水) モノワスレ
モノハワスレド

ワスレラレタモノガキエテナクナルノデハナイ

サラバ サラバ

ナモナキセカイデ

マタデアウヒマデ

タガイニタダヨイツヅケン

2007/10/09(火) 脆弱の調
自分の自分に関して言えば、断言できる。



本質は脆弱

それを覆い隠すものを強さと呼ぶ

強さを剥ぎ取れば

奥底より暗闇が牙をむく



晒された弱さの持つ力を真の強さと呼んでみてはどうかと思う。

2007/10/08(月) 真理とは
真理とはカテゴライズドな答えの集合体

それはフォルダみたいなもんで

それ自体には何の意味もない

探し出したものを片っ端からそのフォルダに突っ込んでいけば、そのうち自分にとっての真理というカタチが出来上がる

面白いもんで、そのフォルダの中には相対する答えが乱在する

2007/10/07(日) 宇宙迷子
SFモノではよく宇宙座標なるものが出てくるが、どうやってゼロ点を算出しているのだろうか。

まさか、地球を基準にしてるなんて事はないよな。

不安定な二点の関係は直線距離によって決められても、不安定ならば一点のみの場合は絶対的なゼロがないとマズイことになりそうなもんだが。

帰るところが分からないというのは、そこはかとなく恐ろしい。

2007/10/06(土) シカラムータ
最近、ちょっと友達な大道芸人のコハルちゃん。

彼女のお勧めCDをお借りして聴いてみた。


CICALA-MVTA/Ghost Circus

コイツはマジで傑作だ。
稀に見る傑作だ。
むむむ。
日本人を見直したぞ。
NHK的!!
ユーモア&ダダ&超絶。

こういうの聴くと、人生の中には往々にして守りより攻めの方が有効なときが多い気がしてならない。

↓出た。火花。

2007/10/05(金) 藪から
一年ほど前、中央線に乗りながら【軌跡】について考えたことを思い出すなんでもない朝。

「もし移動するモノが常に何かしらの目に見える痕跡を残し続けていたら、世界はどう見えるのだろう。」

似たようなコンセプトを感じる写真や絵画を目にする度に、何かほっとする心地になる。

誰もが夢は美しく描くようだ。

世界よ、平和であれ。

2007/10/04(木) 提案
楽曲の価値とは!!

音楽というやつはとかく曖昧な存在で、何と言うか「計りにくい」よね?

そこで一つ、提案。

詰め込みの中で習った「エネルギー保存の法則」にしたがって楽曲の持つ意味を「穴理論」(そのものよりも周辺に重点を置く考え方)的に浮き彫りにする考え方。
一つの方法論として。

そもそも音楽は発信と受信で成立する。(もちろん発信者と受信者が同一でもよいよ。)

なので、『楽曲に触れる前と触れた後の受信者の変化』を見れば、楽曲の持つエネルギーの大きさと種類が掴みやすいのではないだろうか。と考えたわけだ。

極端な例を挙げるなら・・・
悲しみに打ちひしがれていた人が、音楽を聴いて希望を持てたなら、その変化そのものが音楽の力に相当する。
発信者の表現力は勿論のこと、そこに希望を見出した受信者の想像力も含めて『音楽の力』だ。

当然、この方法は数学のように明確ではないが、ただでさえ曖昧な人間学の中では比較的見て取りやすい結果が出る。

まぁ、曖昧だからこそあらゆる方向から検証してみないと見えてこない。あくまで“一つの”方法として。

しかし、これ、何も音楽だけじゃなくて、芸術全般に使える方法なので機会があれば皆さん、実用してみてください。



表現者は発することに重点を置く傾向が強いので(【我】が強いのは重要な性質ではあるが。)受信側の変化を見落としやすい。
自戒の念を込めて。

2007/10/01(月) 実験的に自分の変化を見つめる
流動が世の常と言えど、有限の時の尺度で見れば変わらないモノだってある。
そういうモノにある程度の時間をおいて再び触れたとき、結果に表れる変化は主に自分自身の変化に由来するものであると言えるだろう。
幼いころに遊んだ公園が大人になって行ってみると小さくなっていたり。
なんてのはよく聞く話。


【自分の世界が広がれば、一つのモノが占める割合は相対的に縮小されていくものだ。】


僕の場合、同じ映画を数年置きに見ることで自分の変化を確認する。
以前は夢中になれた映画を妙に冷めた視点で見てしまうのは、ある意味では寂しいことだが、それはより広い見地で物事を捉えられるようになった証でもあるので嘆くべきことではない。
多くの場合、映画にはメインテーマのほかに複数のメッセージが込められており、自分の成長とともに以前には感じ取れなかった製作者側の意図が読み取れるようになって、それだけ味わいも深くなるってもんだ。

感覚的には、1に1をぶつけたときの衝撃と10に1をぶつけたときの衝撃が違うように、10代の頃の心ごと持っていかれるようなぶっ飛んだ出来事は年とともに味わえなくなるが、逆にジンワリと底から沸き起こる柔らかい波動は若さには響きにくい。
要は、何事にも年相応の楽しみ方があるのだから、今“それ”をやらねば、二度とは体験できない結果があると思えば、迷ったときにやらないというのは勿体なく思えて仕方ない。

「やらなかった」よりは、「やって出来なかった」という経験の方が後に出来たときの喜びの種になるしね。

つまり高校時代にワケの分からないまま、ゴッドファーザーを見ておいて良かったなってこと。


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