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2007/10/01(月)
実験的に自分の変化を見つめる
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流動が世の常と言えど、有限の時の尺度で見れば変わらないモノだってある。 そういうモノにある程度の時間をおいて再び触れたとき、結果に表れる変化は主に自分自身の変化に由来するものであると言えるだろう。 幼いころに遊んだ公園が大人になって行ってみると小さくなっていたり。 なんてのはよく聞く話。
【自分の世界が広がれば、一つのモノが占める割合は相対的に縮小されていくものだ。】
僕の場合、同じ映画を数年置きに見ることで自分の変化を確認する。 以前は夢中になれた映画を妙に冷めた視点で見てしまうのは、ある意味では寂しいことだが、それはより広い見地で物事を捉えられるようになった証でもあるので嘆くべきことではない。 多くの場合、映画にはメインテーマのほかに複数のメッセージが込められており、自分の成長とともに以前には感じ取れなかった製作者側の意図が読み取れるようになって、それだけ味わいも深くなるってもんだ。
感覚的には、1に1をぶつけたときの衝撃と10に1をぶつけたときの衝撃が違うように、10代の頃の心ごと持っていかれるようなぶっ飛んだ出来事は年とともに味わえなくなるが、逆にジンワリと底から沸き起こる柔らかい波動は若さには響きにくい。 要は、何事にも年相応の楽しみ方があるのだから、今“それ”をやらねば、二度とは体験できない結果があると思えば、迷ったときにやらないというのは勿体なく思えて仕方ない。
「やらなかった」よりは、「やって出来なかった」という経験の方が後に出来たときの喜びの種になるしね。
つまり高校時代にワケの分からないまま、ゴッドファーザーを見ておいて良かったなってこと。
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