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2007/02/05(月)
過激な思想だけど、ま、いっかぁ。
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極論を言ってしまえば、 【スポーツとアートとは『そのエネルギーがどちらの世界に向けて放たれるか』によって大別できる。】
スポーツ → 形而下(物理的)世界※1 アート → 形而上(理念的)世界※2
アートが形而上の世界に向けてエネルギーを放つ行為ならば、そこに詰め込まれるものはやはり哲学だろう。
勿論、スポーツにも哲学があって然るべきだが、言っておきたいのは「絶対に必要というわけではない。」ということ。
裏を返せば、アートにも物質的な要素があるのは当然だが、やはり絶対的な必要性はないということが言える。
ということは、1つの芸術作品から物質的要素のみを削ぎ落としていっても、アートは残るということだ。 (例えば彫刻から、木なり石なり、その彫刻を構成する素材を全て取り除いてもそのアートたる所以は消えることはないということ。)
何も無い。影も形も何も無いのにそこに(形而上学的)エネルギーだけがある状態。 それこそ存在し得る最も純粋なアートかも知れない。 (存在してないのに存在するって言うのはなんとも不可思議な感じだが・・・。物理的には存在していないが、形而上学的には存在しているという意味で。)
ところで「エネルギーだけがある」という表現には聞き覚えがある。
そう、宇宙誕生以前の状態だ。 【無】と呼ばれる状態。
【無】そのものが純粋アートであったと思うと、人類がかくも真剣に作ろうとしている物事が如何に不完全でさやかな思い上がりかと、ミジンコ笑い※3を抑えられない。
人間の存在を否定的に見ているわけではない。 ただ人間というのもが良くも悪くも愛おしくて仕方ないのだ。
※1【形而上】 1 形をもっていないもの。 2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。 ※2【形而下】 1 形を備えたもの。物質的なもの。 2 哲学で、感性を介した経験によって認識できるもの。時間・空間を基礎的形式とする現象的世界に形をとって存在するもの。 ※3【ミジンコ笑い】2006/08/30(水)の日記 【PLUTO】参照
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