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2007/03/11(日)
まちだ。だ。だ。
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〜そして彼はおもむろに振り上げたその手でknifeを突き立てた! 無作為に刺された辞書、刃の突端には1つの単語があった。 それが『ダダ』であったという。〜
ダダイストとカテゴライズされていない中にも、芸術家と呼ばれる人たちは内に秘めたるダダの片鱗を匂わせる作品を多く生み出している。 私は【全ての表現者(=全ての人間)にダダはある。】と考えている。 何もかもが「どうでもいい」と思える一瞬を体験したことがない人がいるだろうか。 変化を全く求めない人がいるだろうか。 否、求める求めないに拘わらず真理として万物が変化する以上、そこにダダの因子は在る。 そのニヒリズムと万物流動の融合によってダダは成されるのだ。
(日常でもよく耳にする「オブジェ」という、元々はobjetというフランス語で「なんでもないただの物」であった単語が、現在の日本ではいわゆる「オブジェ」という芸術作品的な立場に置かれていることがダダの影響だというのだから驚きだ。それほどに「ダダ」という言葉を知らないまでもダダは浸透しているのだ!)
あくまで突き詰めるのであればの話だが・・・ ギツギツに詰め固められたものは解体され削ぎ落とされていく工程を経て1つの究極に到達する。 その過程で、他者の目にはどんなに不可解であろうとも、どんなに醜悪であろうとも不可欠なものがある。 それが『ダダ』と名づけられた概念だと私は考える。 解体から再構築までのケイオス期。そこにダダは在る。
どうにもならない雁字搦めの状態を打破するであろうダダ。 変革とは! ニヒルから産み落とされたダダが、万物をニヒルに回帰させようとする力を利用して、飽和した世界から新しい世界を生み出す事に他ならないのである。
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