日々是魂知己
〜自分勝手の極み〜
我、思う。故に知己あり。
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2007/06/29(金) 骨を射ること最も肝要なり。
あるブログで、こんこんちきのライブについての記述を発見。

書と音の類似点について書かれてありました。

正直、コレは嬉しいです。

僕は常々、音は心の表出だと考えているので、心を表現する書に共通項を見出してくれる人が居ることが、有難い。

自分たちの演奏の底にある心を感じてくれる人への感謝。
それを、次のステップへの原動力にしていきたい。

名より実、実より心。


♪Last Train Home / メセニーさん

2007/06/27(水) 牧場のメセニーさん
都会の中で自然を感じるようになって、自ずと自然の中にある業にも目が向くようになった。

対を成すものについて考えることは、思考の基本だと思っている。



そういう風に感じるようになって、今まで見えなかったものが見え始めた。

基本が【対】なら、次にくるのは【合】。

対について考えていくと、じきに境界線がぼやけ始める。

境界線など、もとより有って無きが如きものだということに気がつくはずだ。

そうしているうちに訪れる、蒼。

そういう感覚は人によるのかな〜。

その時、少なくとも俺には朱(パッション)ではなく、蒼(哀しみの飽和)が訪れる。

そこまで行くと、蒼は止まることなく深みを増して急速に明度を失っていく。

そして、それが蒼だと分からなくなった時、俺は場所を確認するように辺りを見渡す。

俺は一人、再び(ずっとなのか)元の場所に立ち尽くしている。

ひどく現実感の無い、この一連の心の動きが、繰り返される度に一つまた一つと俺は歳をとっていくようだ。


そしてメセニーさんは良い歳の重ね方をしてる人だ。

2007/06/26(火) 最近、フュージョン気づいてる。
コテコテのロック畑で育った芋ッコの自分が最近フュージョンなんぞに興味を抱いています。

今んとこ、メインはPat Methenyなんですが、その周辺プレイヤーとか、少しずつ広げてみようかと思っています。


大袈裟な事を言うと、、、

目か耳のどちらかを失わなければならないとしたら、目を捨てようと思えるほどの音があります。

メセニーさんの描く風景は、目に映るものより美しい。

2007/06/24(日) hair
久々に自分の部屋を見渡した。

笑っちゃうぐらい自分の部屋だ。

部屋ってのは、最も忠実に自分を写す鏡だ。

自分の部屋を客観視すれば今の自分が良く分かる。

何をすべきか、良く分かる。

部屋ってのは、ほっとくとどんどん荒れる。

定期的に掃除しなければ、自分も荒れる。

そろそろ大掃除が必要だ。

2007/06/23(土) 晴れたら空にマメまいて
どうやら【美学】とか【浪漫】とか、とかく男は非合理的なモノの上に成り立っている。

そのため、自分の為にしか生きられないというのも多く男に見られる傾向のようである。

【自分ルール】でしか生きられないのは哀しい性だ。

だが、哀しみを携えてなお、ひたすらそれを貫く姿はそこはかとない美を讃える。

2007/06/22(金) make it?
busy as a bee

or

free as a bird



whichever you want


that's your life

…and

goes on.

2007/06/21(木) 大きな流れとは
遠いねぇ・・・

果てしない。


この距離感がたまんないね。


しかし、、、進んでるハズなのに遠くなるってのは、不思議以外の何物でもない。


が、その全ては、本当に何物でもない。

2007/06/20(水) 地下
今、Nina Simoneを聴いているのだが、この空気感は地下に降りたときのそれに似ている。

若い頃、人は【上】に憧れる。

歳を重ねるにつれ、【上】と同時に【下】にも憧れを抱くようになる。

そして双方の向こう側には同じ種の涙があることを知る。

2007/06/19(火) ダメ人間の方法論
『やらなくてもいいこと』は先にやる。

『やらなきゃいけないこと』ってのは、追い込まれればどーせやるよ。
ほっといても、やらざるを得ないんだから。

そうじゃなくて、『やらなくてもいいこと』は先にやっとかないと、やらないまま終わってしまう。

2007/06/18(月) ○×△刺客!!
単調なモノ→深遠
複雑なモノ→難解

というのが一般論ですが

どちらも同じと見るのが虚無主義者の特徴です。

2007/06/17(日) 徹底解剖
ある2人の男が、未だ難攻不落の迷宮要塞「一平野」の解剖に取り組んでいる。

そう、人は地図が無くては生きていけないのだ。

2007/06/16(土)
やっぱり基本、手ですね。人間は。

足はだいたいいつも「立つ」という仕事をしているので、あまり自由ではない。

自由を与えられて何かを「する」のは手です。

(自由を与えられて何も出来ないとき、人は本当の無力を知る。)

楽器を弾くのは、殆ど全て手による行為。
絵を描くのも手。



人と人とのコミュニケーション。
理想を言えば脳to脳がベストでしょう。

でも現実にはいろいろ問題があるので、頑張ってもフェイスtoフェイスが限度か。


楽器で自分の感覚を人に伝えるのはハッキリ言って神業です。

脳to手to楽器to空気to耳to脳

まどろっこしいな。


その中で自分が一次的にコントロールできるのは、脳から楽器までの流れのみ。

良い楽器を持っても手がダメだとミュージシャンとしては話にならない。

良いツールと良い手を持ってても、脳がダメ(脳がダメって何だ?)だと表現者としてはキツイ。

定義がよく分からんけど脳がダメだと表現以前に人間としてダメね、きっと。笑


では今日のまとめ:

発信する脳から受信する脳までの流れの中にある様々な要素の一つ一つがコミュニケイションそのものを大きく左右する。
素晴らしい音楽が成り立つのは、偶然と必然がそろって初めて起こる“奇跡”と言っても過言じゃあない。

2007/06/15(金) 麦に見る夢
リゼルグ酸ジエチルアミド。

ミソ理論に基づいて考えれば、宇宙はコレにより大きく変化するね。


以下Wikipediaより転載

1943年4月16日(金)

午後、私は実験を中断せざるを得ない状態に陥ってしまった。帰宅後も軽いめまいに襲われていた。帰宅するなり横になっていたが、極めて刺激的な幻想に彩られていた。日光が異常に眩しく感じ、意識がぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が私の目の前に展開していた。その状態は2時間ほど続いた。


そしてホフマン博士は4月19日、再び(1度目は意図したものではなかったが)LSDを0.25mg服用して自己実験を行った。


1943年4月19日(月)

以前と同質かあるいはさらに変化に富んだ奥深いものを体験することができた。しかし、感覚の変化が深まるにつれて私は供述することが困難となり、自己実験の供述を記録していた女性助手に家に送ってくれるよう頼んだ。彼女に自転車で送ってもらっている途中も、視野にある全ての像は揺れ動き、歪曲化され、自転車が一向に進んでいる感じがしなかった。家に着いても症状は一向に治まらなかったため、彼女に医者を呼んでもらっていたが、その間に隣の奥さんが牛乳を差し入れてくれた。私はもはや立っていられなくなり、ソファに横になった。空間が全て回転し、部屋の中のものや家具がグロテスクに変化し、まるで命を持っているかのように絶えず揺れ動いた。隣の奥さんも色の黒い醜い顔をした意地の悪そうな魔女に変化していた。医者は私がとてもしゃべる状態ではなかったため、研究助手から実験のあらましを聞いていたが、瞳孔以外には異常は認められず、私をベッドまで運ぶとそばで観察しているだけだった。やがてその感覚が消えると、感謝と幸福な気分が満ちてきた。そして万華鏡のように幻想的な現象が起こり始める。環状と螺旋状が開いてはと閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られた。特に驚くべきことに戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容した。それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。私はそのまま疲れ果て眠ってしまった。翌朝、目が覚めたときはまだ疲労が残っていたが、快適な気分と新鮮な生命力が私を満たしていた。朝食はとりわけ美味しく、朝食後の散歩ではあらゆるものがきらきらと光り輝き、世界は再び創造されたかのようであった。LSDはバラエティに富みしかも刺激的な酩酊を生み出しながら、後に残ることなく、実験の後で感じたのは肉体的、精神的爽快であった。


この博士の記述のの中で俺が注目したのは、『戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容した。』の件。

以前に書いた「視覚と聴覚の転換」に似た現象が確かに起きているようだ。

一月ほど前に経験者に「転換」の話をしたところ、「それ、まさにLじゃん。」と一蹴された。

ふむ。

自分的には新鮮な発想のつもりだったが、どうやらその世界では日常茶飯事らしい。笑

2007/06/14(木) With Light Sleep
最近、寝るときに電気をつけたままにしている。

深い眠りに入らないことで、覚醒と睡眠の中間状態を楽しむことが出来るのだ。

まぁ、これも一種のtwilightだ。

要するに、覚醒した状態で体験する出来事とはまた違った経験がそこにあるというワケだ。

Light Sleep Disease

完璧に合法です。笑



移動中は車の中で眠り、ライブハウスでは楽屋で眠り、家では灯りの中で眠る。

全ての体験が夢の中へ。

それは「人生は夢の如し」という夢想家たちへのジンテーゼでもある。

このアウフヘーベンによって、俺は何を目指す?

2007/06/13(水) トワイライトな日
この日、俺は雪崩にのまれて死にました。

最期の時、迫り来る流れを前に抱いた感覚は、死を迎えるにしてはあまりにも穏やかなものでした。



目が覚めても穏やかな心持は続き、生と死の両方を同時に具有しているような感覚で1日が過ぎて行きました。

よりによってLIVEの日にDEADな気分を堪能しました。



嗚呼、生命とは。




ところで街を人間の巣として見ると、なんとも異様な光景に見えてくる。
全く不思議な習性を持った生き物だこと。

2007/06/03(日) ことなきこと
僕らの描く世界は、善くも悪くも虚像だ。

虚の上に成り立つ実に一喜一憂するのが、人間だ。

人間道とは、【無の中に有を残そうとじたばたする事】に尽きる。

じたばたしなくなったら、無は無のまま。この世には虚像すらも現れない。

虚像すらも見えなくなったら、まぁ面白くはないね。

だから、みんなじたばたする。

咲き誇るどくだみの花に心動かされる。


どくだみや真昼の闇に白十字   茅舎

2007/06/02(土) 教員家系
イトコの結婚式に出席したら、そのテーブルに居た自分以外の親族全員が教員であった。

式当日の朝、ホテルの朝食バイキングの席で繰り広げられた会話は一般ピープルの俺には全く異常としか思えない内容であった。

AM8:00に【シュタイナー教育】について熱く議論し合う皆さん。

皆さん…。それは紛れも無く職業病です。


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