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2005/03/14(月)
なんでもない話
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あるおじいちゃんの話。
僕と血縁には無いあるおじいちゃんがいます。 そのおじいちゃんとは直接会ったことは一回しかありません。 それは、伝え聞いたその人の言葉に魅力を感じたから、自分からそういう場に出向いての事でした。 そのおじいちゃんは、独特といえば独特、でも僕から見るととても自然な考え方、言葉の使い方をする人です。
このへんの話は非常にセンシティブな捉え方になるかもしれないし、 なに言ってるのか解らないという事にもなりそうです。 まぁ文章の練習と思って。
そのおじいちゃんは、夫婦での二人暮し。 子供は手を離れ、自由気ままな生活をしているようです。 仕事は絵描き。 といっても有名でもなんでもなく、個展はたまにやるけれど、 それは本当にこぢんまりしたもの。
そのおじいちゃんは、つれあいの方の事を表現する時に、 「一緒に住んでいるもう一人の三宅さん(仮名)」と言ったそうです。 普通なら「家内」とかそういう言い方になるのでしょう。 あまつさえ「うちの」とかも付いたりするかもしれません。 本当に細かい話で、どうでもいいといえばどうでもいいんだけども、 その言葉ににじみ出る他人との距離のとり方がとっても好きだなと思いました。
心理学とかの分野で「家族」というものが幻想だという事は盛んに言われているようです。 それはそうなのかも知れないけど、言い切ってしまった後で、 それならばどうしようかという事が無ければそんな事は知っても解っても侘しいだけです。 僕自身、「言葉」というものにカナリの疑いを持っていて、 例えば、家族、という言葉一つをとっても、その言葉を使うときに、 その言葉を使う対象の捉え方自体を自分の中で半強制的に、 言葉の方へと当てはめようとしてしまうのは誰しもやっていることだと思っています。 意味と事象・心象との逆流という事は不可避的に日常いくらでもあるのですが、 そのおじいちゃんの言葉はそういう事から脱しているように感じられます。
他人との関係性や、自分や人の中にある心象やなんかを言葉に置き換えて解りやすく整理するのはとても便利です。 でもそれは言葉で表現されたとき、ざるで水をすくうように、 それそのものはこぼれ落ちていきます。 喜び、といっても様々なものがあるでしょう。 悲しみ、といってもその言葉一つでその深さが、他人にも自分自身にも伝わるものではありません。 そしてそう名づけてしまう事で失われる手触りや匂いもあるでしょう。 時々、伝え聞くそのおじいちゃんの言葉は、そういった手触りや匂いに満ちていて、 僕は思わずくすっとなるのです。
今日聞いた話。 おじいちゃんと、おばあちゃんの会話。
おばあちゃん「ほんと、この人は時々そらぁ無理やでぇてなことを言うんですょ。
おじいちゃん「まぁ今少しの辛抱をおねがいします。
おばあちゃん「まぁそう言わんと長生きしてください。
ここにあるのは愛なんぞだけではございません。
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