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2005/03/31(木)
じかんのつかいかた
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前にも言ったあるおじいちゃんが絵について言っていた事なのですが、 展示場やなんかで、通り過ぎるように見て、 立ち止まるにしても一分や二分では何も解らないというような事を言っていました。 その絵と「対峙」するためにはもっと長い時間が必要だ、と。
確かに、何日も何ヶ月もかけて描いた様な作品を見るのに、 その時間の流れや製作者の息吹を感じ取るのには 少々の時間では出来ない事なのでしょう。 本なんかにしても、その作家が何かを感じつつ生きてきた時間の長さや、 膨大なエネルギーを注いで作り上げた物語なりなんなりを 僕たちはそれよりもっと短い時間で受け取らなければならないのです。 そういった深みがあるからこそ、一回目読んだ後に自分の人生を歩み、 また何かの機会に読み返すと別の感じ方が出来たりもするのでしょう。
僕は一つの絵を二十分も三十分も(ここでの具体的数字の長さには取り立てて意味はありませんが) 眺めていたと言う事はありません。 画集なんかでも、良く見ても五分とかそんな単位でしょう。 何回も眺めて、総時間が長いというものはあるのでしょうけれども。
ただ、記憶にある中で、一度だけ、絵ではないのですが、ある作品を長時間眺めていた事がありました。
何年前だったか、横浜であった大きな現代芸術の祭典「横浜トリエンナーレ」を見に行った時です。 その時は東京の友人宅に宿を確保していたので、時間もゆったり。 学生だった事もあり、脳内の時間の流れもまったりしていました。 その作品、作者も作品名も忘れてしまったのですが、 白い壁があり、そこに30cm×20cm位の横長の小さな白い出窓のような出っ張った枠が付いていました。 奥行きは10cm無い位。 そこには、簡単な演劇の舞台セットのような柱や階段を表現したようなものが その限られた広さを邪魔しないように効果的に配置されていました。 そしてそこに、おぼろげに人というイメージが湧くような造形物がたたずんでいました。 僕は、その時その作品の何に惹かれたのか解りませんが、その前で立ち止まりました。 なんだろう、などと思いながら眺めていました。 ぼんやりと、と言ったほうがいいかもしれません。 そんな半無意識状態で眺めていたのですが、ふと我に返るとその人のようなものが 僅かですが最初の位置とは違う場所にあるのです。 興味を持った僕は作品の解説を読みました。 その作品は、精密な技術を使い、小型のモーターを中に内蔵し、超小型のコンピューターに制御され、 電池の続く限り、同じ場所を回り続けるものだったのです。 そして、その動く速度は僕たち人間が認識できないほどの遅い速度だったのです。 そして僕はそのままそこで半時間ほど作品を眺めながら立ち尽くしていました。 その時間で、人のような物は柱の後ろを回り階段の前を通り、元の位置へと戻ってくるのでした。
その時間に何かを考えていたかと言えば、何も考えていません。 考えになる前のイメージのようなものはふつふつと湧いて出てくるのですが、 「観る」事をしている僕にはそれ以上考えをまとめる事はできません。 おぼろげに、そういえば太陽も動いているのに目では追えない速度だなぁとか、そんなぼんやりしたことでした。
その作品には最先端の科学技術が使われているとありました。 そういうものを使って、全くやらなくていいことをする、というなんとも芸術らしい姿勢に 僕はとても感動したわけなのです。
今はもう、なかなかそんな贅沢な時間の使い方はできません。 というのも、日常の時間の流れ方があって、どんなにゆったりした休みの日でも 平日の時間間隔が頭をもたげてくるからです。
学生時代、そういう風に今よりももっと暇な時間の使い方をしていて本当に良かったと思います。 なぜなら、それでこそ育つ何かを僕は僕の中に感じるからなのです。
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