夢想庵
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2005/04/20(水) 昨日見た映画
昨日はなんだか一茶の本の事で長くなったので今日は昨日見た映画のことをば少々。

「ゼブラーマン」
工藤勘九郎さん脚本、哀川翔さん主演(主演映画1000本目!)監督ワスレタ
友人の映画狂がこの映画を見て泣いたといっていたので興味津々で見てみました。
その友人が何処で泣いたかは解りました。
とはいえ僕の涙腺には何の反応もありませんでした。
工藤勘九郎さん脚本のものは何本かだけ見ましたが、
木更津キャッツアイが一番好きかなとは思います。
とはいえ、ある人が言っていた、工藤勘九郎さんが手がけた物に共通する
みんな出しとけーというノリはやはり有る気はします。
今、なぜか天才脚本家等とも言われたりはしますが、まだ流行り廃れのもので、その評価は実力云々ではなさそうです。
勿論面白い部分も多いのですが、オハナシとしても部分よりも演出的な部分での方が多いかもと思います。
まぁまぁ楽しめました。

「キル・ビル2」
監督、クエンティン・タランティーノ氏。
細部にオタク臭満載な1と共に、やーオタクさん達大喜びだろうなというシーンてんこ盛りでした。
僕自身は何事かを深く掘り下げて知ろうとはしないので、なりたくてもオタクにはなれません。
こういう映画を観たときに、そういう事がけっこうザンネンです。
この映画、エンターテイメントとして勿論面白いのですが、
感情の起伏がかなりしっかりと詰め込まれていて面白かった。
非常な殺し屋だった女が自分の妊娠を知ると共に死ぬのが怖くなり殺し屋として役に立たなくなるシーンとかが好きです。
1は派手に、2は重量感たっぷりに、それぞれに違う楽しみ方が出来ました。


ところで、この映画公開前の監督の記者会見をギャガコミュニケーション(だっけ)の取り仕切りで
マスコミ各社を大々的に呼んだものの、
当の監督が当日、寝坊で会見を遅刻だかキャンセルだかした時に、
どっかのマスコミの人がギャガの人間に「こっちは遊びでやってるんじゃないんだよ!」と
詰め寄っていたのをニュースで流されていたのを覚えています。
でも僕は、監督当人が遊びで作っている(遊びといっても半可無い本気の遊び)
映画の記者会見には本当に相応しくないと思うのです。
仕事に忠実とかなのかもしれませんが、それはセオリーに振り回されているだけで
目的となる対象そのものが遊びの塊みたいなモノなのだしそこでギャガの人間に怒ってもなぁと思います。
まぁ、勿論色々僕には計り知れない理由もあるのでしょうけど。

人間の内面的な特徴に対して往々にして言える事なのですが、
例えば「真面目」という特徴も時と場合によって長所ともなれば短所ともなり、
それは評価する人間の持つ、評価される人間に対するイメージにもカナリ左右されると思います。
いいイメージを持っていたらいい感情を込めて「真面目」といい、
悪いイメージを持っていたら言葉が少々大げさですが悪意をこめて「頭が固い」と言うように。

僕は、ある種の特徴があって、それに対する言い様なんかは割りにどうでもよく、
僕が大事だと思うのは、どういう感情・意思を持ってそれいにより
どういうつもりでその言葉をチョイスしたかを感じるほうが遥かに大事だと思っています。

だから、この記者にしても、評価する自分が評価される自分に対して何かしらのいいイメージ
つまりそれはただのエクスキューズですが、その場で怒るだけの理由を持っていたのでしょう。
自分は真面目に仕事をやっているんだ、とかとか。

まぁ多分この記者さんはクエンティンタランティーノという人そのものはどうでも良かったのでしょう。
色々、仕方が無いと思います。

2005/04/19(火) うらら
今日はとてもいい天気でした。
同じような書き出しをもう既に何回かやってる気がするのは気にしないでおきます。
でも明日は春の嵐が来るそうで、仕事で早くから外に出る予定なのでゲンナリな今は二時半です。
早く寝なきゃっ。

今日は田辺聖子さん著「ひねくれ一茶」を読み終えました。
前回話題に出してからで考えると時間かかりすぎかも。
俳句や歴史に興味を持っているわけでもなく、時々行く古本屋のおじいちゃんに勧められたので読んでみた本です。
田辺さんの本は初めて読んだのですが、けっこう感情移入して読めました。

一茶は旅をしつつ各地に居る門人(弟子みたいなもの)を巡り歩くのですが、
その旅先で出てくる人々の名前が多すぎて、固有名詞に弱い僕はちょっと辟易してしまいました。
とはいえ、その一茶の人生や日常風景を描きつつ、エピソードの締めや味付けに一茶の句を入れ
話し全体をとても深みのあるものにしていると思いました。

一茶は当時の流行の俳句の人々とは違って非常に俗な言葉や事象を使って風雅を描き出します。
彼も他の有名どころの俳人と同じく、門人を増やし選集を出すという野心も勿論持っていたのですが、
何よりも各地を巡り門人や俳友と交友を深め、句作の世界を掘り下げて行くことを最上の喜びとしたと描かれています。

もちろん田辺さんが調査ナリなんなりをした上での創作ではあるのでしょう。
とはいえ、紹介されている句に対しての違和感は感じないので、そのまま受け取りました。

話の中でグッと来た事をひとつふたつ。

一茶がある門人の家を訪ねたときのこと、門人は「秘伝の俳句の作り方」のような本を手に入れたと言い
とはいえ、これはどうなのでしょうと一茶に相談しました。
話によれば、それはかの松尾芭蕉の直弟子が芭蕉より教わった秘伝を書き記した物だと言う事なのですが、
結局それは旅の急場をしのぐ為にその旅の俳諧師がでっち上げた物でした。
そのエピソードの中で一茶は
「句作なんてものは誰かに教えてもらったりして学ぶもんじゃねぇ。悟るもんだ。」
と言います。

これは句作だけでなくあらゆる表現に言える事だと思います。
例えば自分よりもその分野で優れている人間が居て何かを教わったとしても
その言葉なりのコミュニケーションからどんな小さな物でも自分で悟らなければ結局は役に立たないと思います。
世にあるHOWTOも全てそういう風に自分で噛んで飲み込んで消化してやっと力になるのです。

みんな内なる世界ではそれぞれ天才なんだと思います。
それは想像力や妄想や夢や狂気や、呼び方はなんでもいいのですが、
それに対して外の世界とを隔てる硬い壁に風穴を開ける方法は、自分でコリコリ開けるしか無いんですなぁ。


もう一つエピソードを。
これは一茶自身の話ではなく、江戸での親友で寺子屋をやっている耕舜という人の話です。
彼はもともと田舎の武家の出で、その地で妻もいたのですが、あらぬ噂のために故郷を追われる事になります。
この噂の内容については語られていませんが、その時の妻は彼を信じるどころか噂の尻馬にのって彼を責めたそうです。
打ちひしがれて、当ても無く故郷を後に一人江戸へと向かう彼の後を一人の女中がついて来ました。
彼が進むと彼女も進み、彼が立ち止まると彼女も止まる。
業をにやした彼は、江戸へ着いても乞食のような暮らしが待っているだけだ!と彼女をきつくさとします。
その時彼女はおずおずと
「それならば私も乞食になります」
と言ったそうです。
・・・
もうっ!キュンときちゃいましたょ!

失敬、興奮してしまいました。
その女中を娶り、住んだ家の大家から人格と学識を認められ寺子屋を営む運びになり、
どうやら乞食にはならず、貧乏ながらも幸せな暮らしをしたということです。

別に女は男にかしづけとか思っている訳ではありません。
でも、こんな風に人に尽くせる強さを持つ人はとても素敵だと思います。
自己弁護のようですが、元来男は弱いものだと思います。
うすっぺらい外皮の内に何か圧力が存在しないとその形を保つのも困難だと思っています。
その中でも最も強い圧力は、やはり半身ともいってもいい、女性なのだと思います。
なんかちょっと気持ち悪い事言ってる気もしますが。。。

コミュニケーションが楽しいというのも重要かもしれませんが、
こういった強さ優しさを持つというのは何よりも重要だと感じます。
それは幸せになる才能の最重要要件だと思うのです。

2005/04/18(月) あらら
PSOちょっとだけのつもりが変なのに捕まって時間が過ぎてしまいました。
ネムケで何も考えられないのでまた明日。
失礼しましたん。


とまぁ、なんともかんとも。
書き足そうとする今、火曜日の夜既に眠いです。
しかしがんばるぞっ!
や、変なテンションです。


僕は物事の好き嫌いをハッキリと自身持って人に言うのが得意ではないのですが、
それは、その分野において自分よりも好きだという人が絶対に居る限りは
そういうことを安心して言えないな、という訳の解らない引っかかりがあるからなのです。
とはいうものの、そういった相対的な程度の差、というか違いは本来は意味の無い事だとも思います。
しかし、やはり断言が不得意なこのままならなさ。

それはそうとしても、今日ふと考えました。

今日は普段乗らない急行の電車に乗って仕事場へと向かいました。
僕は、いつも電車の中で本を読んでいるのですが、
時々本に没頭するあまり乗り過ごしてしまったり
一駅前で降りてしまったりということがたまにあります。
そして、今日は悪い事に、急行に乗ってしまし、また間の悪い事に本も終わりに近づき佳境という所。
で、結局仕事には遅刻したのですが、作業予定自体が午後からだったので怒られはしませんでした。
このへんはタイムカードの無い仕事ゆえの有難さか、しかし甘えないようにしないと。
話がそれましたが、その遅刻しながらもあまり急がない(急げよ)道中、
ぼんやり考えていたのですが、本の事を考える内にふと「あ、本が読めなくなる生活って嫌だな」
と、ごく自然に思いました。
そういう風に今日、気づいたのですが僕は本が結構好きなようです。
これに関しては「好き」といってはばかられるものを感じないのです。
何を今更とも思いますが、なんだか新鮮でした。

とはいえ荒俣宏氏のように四六時中本を読んでいたいということは勿論ありません。
いつでも読めるという余裕の元に読まない時期もありますが。


無くてもいい好きなことは沢山あります。
でも、自分の中に無くなったら嫌だと思うことを発見したのは少し嬉しい事でした。

こんな風に僕は時々、馬鹿馬鹿しい位にアタリマエの事で感動します。
ほんと、馬鹿みたい。

2005/04/17(日) けちゃっぷりん
今日はいい天気だったけど殆ど家に居ました。

昨日はそれなりに早く寝たのに午前中遅くまで寝ていて
なんだかうだうだしているうちにお昼になってしまいました。

最寄の駅前に蕎麦とウドンの店が出来ていたのが気になっていたので
お昼はそこで食べました。
母が用事で出かけるタイミングと一緒だったので久々に一緒にお昼を食べました。
僕は昨日と同じくザルソバ、母はわかめうどん。
麺は両方共にまぁまぁ美味しかったのですが、ダシがちょっと濃いめで、
蕎麦の風味とかがあまりしませんでした。
蕎麦湯も普通。
でも値段も安めで普段使うにはいいかもです。

そのあと母は電車でお出かけ、僕は市場へ行って少し食材を買い足し帰宅。
ハーゲンダッツが四割引のセールだったので買い込んじゃいました。
帰ってからオヤツに某所で話題になっているケチャップリンを再び試すも
ケチャップとプリンは分けたほうが美味い事を再認識しました。
それなりにいいプリンと自作ケチャップなのでOKなはずだたのですが。
でも、トマトジャムをカラメルソースの代わりにするならいいかもと思いました。
こないだひやしあめ飲んだ時に、その生姜の風味がジャムに良さそうと思ったので
それとトマトを煮詰めたジャムを作ってみて、もう一回やろうかなと思っております。
それはそうとカラメルソースついてないプリンってなかなか無いです。
無いやつは無いやつで、そのものに甘さがよくついててケチャップリンに向いてなさそうだったり。
それなりにバリエーションある店だったのですが、ままなりません〜。
ちなみに興味もった方、とりあえず止めといた方がいいですよ。
発明者本人さん以外からまだ美味しかった報告が入っておりませんので・・・。

午後はゆったりとラクガキ。
某さんから頂いた画を線画から起こしなおし。
早めに仕上げたいけどもどうなることやら。
頑張るます。

途中、休憩に昨日京都で買ってきた和菓子などを頂いてすっかりカロリーオーバーなおやつでした。
食べるの好きだし、将来太るんだろうなぁ。。。

晩御飯は最近お気に入りのピザシートでアッサリしたホタテの貝柱のピザとオムライスを作りました。
ご飯は割とあっさりめの味付けにして、
卵に生クリームをたっぷり入れて、塩と胡椒でしっかり味付けして、
フライパンに流し低温で温め続けてドロドロの柔らかい状態で
ソースの様にして食べました。
お店のオムライスとかだともうちょっと固めてご飯に載せて
わずかにトロ〜リが見栄えいいのですが、家のことなので手間を省いての調理。
というか、あのお店の絶妙な固め方はできまへん。

タイミングが少しずれてご飯がちょっとだけ冷めてたのが残念でしたが、
評判も上々、自分的にも味付けも上手くいって、美味しく頂けました。
今度作る時はアツアツご飯で食べられるように段取りをもっとちゃんと考えたいです。

ピザはホタテがでかすぎて食べにくかったですが、これもまた美味しかった。
てゆか何かとピザ食べてる気がします。
だってだってそのピザシートと、とろとろチーズが美味しいんだもン。

晩御飯の後もラクガキをしつつ今に至る。
明日は早く、長丁場になりそうなのでこのへんで。

2005/04/16(土) 京都へ
京都へ行ってまいりました。

朝からとてもいい天気で暑くなると思ったので少し薄着で出ました。
考えてみれば、まだ四月。
これからの気温を考えるとゾっとします。
もう脱ぐ物ねーよ!とかなりそうです。

とりあえず河原町まで出て、最初の目的地、京都市美術館へ。
京阪四条で電車に乗ろうかと思ったけど、鴨川沿いを歩くのが気持ち良さそうだったので
てくてくほてほて歩きました。
で、うろ覚えに歩いていて適当に東へ入ると丁度美術館に着きました。
すげー。

美術館にそのまま行こうかとも思ったのですが、ふと平安神宮を覗きたくなって
ふらふらと庭園に入っていきました。
さくらもまだまだ満開で、ものすごく綺麗でした。
庭園内の遊歩道を歩いていて、途中、小川があったので、そこを流れる花びらを眺めながら歩いていたのですが、
ふと光が変わりました。
見上げると、そこはその庭園内でも一番さくらが綺麗に見える所だったらしく、
そこにあった二本のサクラの天井を通って来た太陽の光があたりをほんのりとピンクにしていたのでした。
それまでの木に囲まれたちょっと薄暗い道もその効果を狙ったものなのかなと思い、
設計した人のセンスにかなり感動しました。

池の周りを歩いていたら目に付くのが菖蒲。
なんとも元気がいい感じがするなと思ったら、そういえば花が咲くのが五月か六月か
そういうエネルギーがはとばしってたんだなぁと感心しました。
そこで見知らぬおばちゃま方が話していたのですが、
平安神宮の庭園は四季折々の花が咲くらしく、一年中綺麗だとのこと。
また行きたいなぁと思います。

そのあと美術館の方へ回ってみたのですが、目当てにしていた展示が無い・・・。
目的にしていたのは「曽我蕭白」(ソガショウハク)という人の展覧会。
「無頼という愉悦」と銘打っていました。
1730〜81の日本の絵師で、ちょっと前に本屋に言った時に芸術新潮だったかで特集していたのと
ラジオでの紹介が面白そうだったので気になっていました。
とても奇妙な絵を描く人で、特にその人物画などの目つきなんかは狂気さえ感じます。
基本は水墨画ですが、しっかり色の乗った絵もあります。

その展覧会のポスターを発見、期間を見てみたら今日はちゃんとやってるはず。
場所を見ると・・・京都国立博物館。
まつがえました。
博物館は美術館からかなり南の方で、後で回るにしても、とりあいずそこでやっていた企画展を見ました。
「視線」をコンセプトにした企画展で、これはこれで面白かったです。

美術館を出た後に前から行きたいと思っていた蕎麦屋さんを目指して北上。
目指すは北大路通り。
歩きました。
遠いよ。
考えてみたら京阪一駅叡山電鉄二駅の距離。
そりゃー遠いですわな。
汗ばみつつも北大路通りについて道路に沿って探していたのですが見当たりません。
北大路烏丸まで出た所で諦めました。
まぁこれも縁。
また今度来ようとホテホテ歩いて目に付いた蕎麦屋さんに入りました。
そのお店もカナリHIT。
ざる蕎麦を食べたのですが、蕎麦湯まで美味しかったのは久しぶりでした。
おかみさん一人で切り盛りしてる店なのか、狭いながらも京都の町屋で
小ぎれいなお店でとても好感もてました。
場所は烏丸通りを京都御所からちょっと北の向かって右の並びです。
名前は忘れた。。。

そのあと京都御所へ向かったのですが、その途中ふと路地を見ると着物の女性が日陰にたたずんでいて
周りの建物も古いものだったので、その風情に思わず見とれてしまいましたエヘヘ。

京都御所を通り抜けて京阪丸太町駅から七条へ。

京都国立博物館へ行って目的の展覧会を見てきました。
あまりの迫力と数の多さにメチャ疲れました。

展覧会へ行くと、何がしかの刺激を受けたいとは思うのですが、その時の昂ぶりはすぐにしぼんでしまうのと、
何か感じたというのが自分の中で咀嚼されて消化されて昇華されるまでには
けっこうな時間を要します。
何よりもまだまだ感受性が未熟なので作品から溢れる情感を殆どこぼしてしまいます。
勿体無い。
でも見に行ってよかったと思います。

後に思い出すために図録を買って、帰りにあった店で家族にお土産の和菓子を買って帰宅。

家に帰ってから、ちょっといい御茶を淹れて和菓子を堪能。
最高の気分でした。

一息ついてからリベンジで作ったソースでグラタンを作りました。
父親が「ツナ入ってる?」と言うほどに柔らかくなった豚肉がトマトソースに重厚さを加えていて
ペンネに和えたリコッタチーズのまろやかさとのバランスも良く、とてもいい出来上がりでした。
それが美味しかったのでワインを飲みすぎて酔っ払ったので昨日は日記が書けなかったのですよ、
と日曜の午後に言い訳してみる。

昼間とか目論見が全て上手くいった訳ではないけれど、回り道も含めていい一日でした。

2005/04/15(金) アイデン&ティティ
今日見た映画

みうらじゅん原作、田口トモロヲ監督「アイデン&ティティ」

八十年代のバンドブームの頃のバンドを描いた話。
って説明短か!

恥かしくなるくらいの青さの映画です。
それは決して作りが甘いとか荒いとかっていうことではなく、です。
その当時の空気は大槻ケンヂさんの著書なんかでしか知らないけれども、
流行り廃れというものの一つにたまたま「バンド」があった、という
社会とそのバンドとしての当事者達とのギャップが本当に一生懸命描かれていて、
気恥ずかしさか羨ましさか、見てて何回もはにかんでしまいました。

原作の漫画を読んでいたので話の説明の過不足の事は解りませんが、
青春とかそんなのが好きな人にはお勧めです。

日本のちょっと暗い男子の悩みを見たくない人にはオススヌできまへん。

2005/04/14(木) 久々に見た映画
今日は仕事帰りにひっさびさにレンタルビデオ屋に行ってきました。
借りたラインナップ。
「東京ゴッドファーザーズ」
「ゼブラーマン」
「キルビル2」
「アイデン&ティティ」
「ブルースブラザーズ」
です。
どれも楽しみ。

今日は東京ゴッドファーザーズを見ました。
監督は今敏氏。
「パーフェクトブルー」「千年女優」「妄想代理人」の監督さんです。
ちなみに全てアニメーションです。

三人のホームレスがクリスマスの夜にゴミ捨て場で赤ちゃんを拾います。
その親を探して東京を駆けずり回るという話。
かなり大雑把な説明ですゎ。
僕自身としては千年女優が一番好きなのですが、この作品もいい味出てて楽しめました。
アニメの中でも割とリアル志向な線なのに流れの中でなんのてらいも無く、
突然カリカチュアライズされるのが適度に気が抜けてて楽しかった。
んなアホナ!と言う偶然を基にした展開も別に何の抵抗も無く受け入れられました。

この作品、初めのスタッフ紹介で驚いたのですが、音楽が鈴木慶一さんでした。
この方は昔(今もなのかな)ムーンライダースというバンドをやっていて、
まだレコードがくるくる回っていた時代のバンドですが、
なかなかに僕の感情の琴線を振るわせてくれる音楽を奏でるバンドでした。
それも好きは好きなのですが、何よりも任天堂のゲームで糸井重里氏制作の
「マザー」「マザー2」の音楽を作っていて、僕はそれがカナリ好きなのです。
そしてこの映画の音楽もそのテイストがじんわりと感じられるものでとても耳に心地よかったです。

話がそれますが、マザーは1も2も音楽を聞くためだけにプレイしても損は無いと思います。
ゲームばかりを作ってきたという人からは決して出てこないだろう言葉の数々も
サスガ糸井重里氏!と拍手喝采を送りたくなります。

パーフェクトブルーはサイコサスペンス、
千年女優は・・・ドラマ?(カテゴライズ苦手です・・・)、
妄想代理人はサイコ・・・なんだろう(本当に苦手です)、
どれも面白いです。

妄想代理人は30分アニメで何話まであったか、けっこう長かったのですが、
これのオープニングの音楽はとても耳に残る面白い物でした。
話も面白かったです。

久々に見た映画が外れでなくってよかったです。
明日は何を見ようかな。

2005/04/13(水) 数2
続けるほどのこともないのですが。

いつだったか、PC上での色再現等に関する講習を受けに行った時に聞いたこと。
PCのモニタで再現する、というか、PCの中で処理する色の再現は、
2の何乗だったかとにかく一つの色を0から255までの256段階で区切って計算するらしいです。
この場合の「色」は、モニタで色を再現する上での基本となる、
加法混色の三元素、RGB(レッド、グリーン、ブルー)の三種類です。
たとえば印刷物なんかの反射原稿になるとCMYK(シアン、マゼンタ、イエロー、なんだっけ)
の四種類になります。
で、特にRGBの場合だと(R,G,B)とした場合に
色を表す情報が(255,0,0)とすれば赤がモニタに映し出され、
(255,255,255)で真っ白、(0,0,0)で真っ黒となります。
これらの方法は、色彩学等でもまだまだ完璧には色を一つの表にはまとめられていない現状でも
どうにか計算によって色を再現しようとした試行錯誤の結果だと言います。
まぁ、細かい事はいいのですが、どうがんばっても今は基本これが限度らしいです。
で、そのなかでも規格によって再現性の差があるらしいのですが
例えば今現在でもカナリの再現性を誇ると言うAdobesRGBという規格でも
例えば、綺麗な海での太陽の光を透過させた海の青さなどは再現できないそうです。
まぁ、そんなもの自体が稀有なものなので、それ以外を再現できるという事自体凄い事ではありますが。

例えばフィルムで写真を撮っていても透過光による色というのは非常に美しく写ります。
同じ物をデジタルカメラで撮った場合にその違いを認識できるかと言われれば、多分、
もとい、確実にできません。
その場で比較してやっと、やっぱり違うなぁと認識できる程度の差だと思います。

でも、比較をせずに、やはり違うなぁと思うことがあります。
僕がそれを特に感じるのは空の写真を撮った時です。
空は本当に深いグラデーションをしていると思います。
それは無限に柔らかなグラデーションと言いますか、なんとも言えないトーンなのです。
冬なんか特に感じるのですが、夕方のひと時に空のグラデーションが、
沈む太陽の方から金色、黄色、オレンジ、ピンク、紫、青、紺、濃紺、そして夜
というふうにグラデーションするのがわかります。
デジタルカメラで空を撮った時になぜかどこかにグラデーションの線が見えてしまうことがあります。
256という段階は人間に一瞬で認識できる程度の数の段階では無いとは思います。
でも、認識なんていう意識的な反応ではなく、
もっともっと基本的な、感覚的な部分ではその差が解ってしまうのでしょう。

256の段階の上や下や、数字の間に感じる何かがあるのかもしれません。

2005/04/12(火)
僕は、「解りやすい」という事は、それはそれで危険な事のようにも思います。
わかりやすい物の最たる物の一つに「数」というものがあります。
もちろん、数学、と言うような事になってくると解り易いなんてことは無いのですが、
こと、数、と言うとやはり物事を解り易くする為に人間が発明したものなのだと思うのです。

雛形としては一個の固体としてあるものを並べた場合に見えてくる数があったのだと思います。
賢い人類は、それによって出来た概念を数えられない物にも当てはめてゆき、
水や時間や頭の良さや、あまつさえある種類の信用すらも数値化してきたのだと思います。
(数値化された信用、それはオカネの事です。)

ゼロと1の差を「とりあえず」決め、それを単位に総量に対する数を見出す事は、
その「とりあえず」を共通のものにすることによって、
そのものを伝え合うお互いにとても解りやすくなります。
そしてそれを共通とする人間の数が多くなればなるほどその単位はどんどん強くなっていきます。
そうしてどんどん強くなった単位は長い年月の中で、
さも元からそこにあったかのような顔をしだすのです。

そうして僕たちのアタリマエになった単位やそれによる数は、僕たちの思考の方向を
ただの一方向、多い少ないに当てはめていってしまうと思うのです。

もちろん、数の便利さは全く否定するつもりはありません。
ただ、いつのまにかその解りやすさに頼り切ってしまう、その思考停止のような部分が怖いと思うのです。

僕は非常に理系的なものの考え方というか、理屈っぽい考え方なのですが、
それゆえにか、物事を感覚的に捉える曖昧な方法に惹かれます。
現代は食べ物でも絵画でもなんでも、オカネに換算されてしまっていますが、
それにこだわらず、安くても美味しい物は美味しい、高くてもまずいものはまずいと、
無名の画家の値のつかない絵でもいいものはいい、と感じ取れる、
変な前提(金銭的価値観だけでなく例えば作者との関係性等も含めて)に
左右されない感性を持てたらいいなと思っています。

2005/04/11(月) 帰ってきた日常
さて普通にお仕事の日々が帰ってきました。
昨日まではその一連が頭から離れなかったけど、とりあえず終わったので、
ちょっと落ち着いて物事に向かえるかなと、向かわないとなと思っております。
ずっと続けているネットゲームからも少しづつでも時間を作れるように
離れた方がいいのかもとも考える今日この頃です。

今日、お仕事で昼休み時、へろへろと歩いていると喫茶店のオネーサンが
店先にたまったサクラの花びらをほうきで掃きながらふっと一息ついた様がなんとも言えず風流な感じでした。


今、田辺聖子さんの「ひねくれ一茶」という本を読んでいます。
久々に読む伝記ものなのですが、グッときた句があったので軽く紹介を。

海は大きすぎて自分ごときでは詠めねぇや、などと思っていた一茶が、
まだ赤子の時に死んでしまった母の事を憧れの女性の姿に重ねつつ思い浮かべた
その暖かさ、大きさを想った時にふと思いついた句だそうです。

亡き母や 海見るたびに 見るたびに

なんで17文字にこんなにも感情を込められるものなのでしょうか。

ちなみに今ぱっと思い出せる中で、過去にグッと来た句は、良寛和尚の辞世の句

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ

です。
日本人でよかった。

4月絵日記の続き


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