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2007/03/11(日)
彼の背中
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彼は決まって閉店間際、客が落ち着いた頃にやってくる。 その日もそろそろ店じまいだと、拓実が明日の仕込みについて、段取りを考え始めた頃にドアが開いた。 「あ……」 「ああ、オーナー」 レジの近くにいた進哉がまずその姿を見止め、その声に気付いた桐野が渡辺の姿を確認した時、拓実の体に少しばかり緊張が走った。背骨に鉄筋を突き刺した感じだ。背筋がシャキンと硬直する。 拓実の隣に立っていた桐野がカウンターからするりとフロアに出る。 「相変わらず突然ですね」 「まあそう言うな」 いつものやり取りに渡辺が苦笑する。 桐野はアイコンタクトで進哉にあとを任せると、一礼してカウンターへ。渡辺は進哉に促されて比較的静かなテーブルに案内されるそのすがら、カウンターで固まっている拓実に視線を向けた。 「三原。今日のケーキを」 低いけれどよく通る声で指示され、伸びた背筋が更にかしこまる。 「は、はいっ」 今日の日替わりケーキはフレッシュないちごをふんだんにつかったショートケーキだ。シンプルでオーソドックスな定番ケーキに見えるが、だからこそパティシエの腕が如実に分かってしまう。 拓実は心臓がバクバクいうのを押さえつけながら、ケーキの皿を用意する。 隣で桐野がコーヒーの用意をしていた。今日のケーキと、そしておそらく渡辺の今の気分にあったコーヒーを準備しているのだろう。渡辺は、コーヒーをオーダーすることもあるし、今日のように何も言わず、桐野に任せてしまうこともある。別に何も言わなくても、渡辺のその時そのときの気分にあわせた味を用意できる桐野に、拓実はいつも羨望と、ささやかな胸の痛みを覚える。 緊張しながらいつもの作業を終え、カウンターにケーキの皿を載せる。 傍に控えていた司がす、とカウンターによって来た時、 「ああ、高見沢君、このオーダーは私がもっていきますから」 ありがとうと笑って、桐野は準備したコーヒーと一緒に、拓実が用意した皿を丸い銀色のトレーにのせた。 フロアに出る前に、桐野がにっこりと拓実に笑いかける。 「心配要りませんよ」というような笑顔に、拓実は少しばかり面映くなる。そんな笑顔を向けられるほど、自分は緊張してケーキを用意していたのかと思うとばつが悪い。 テーブルについていた渡辺は、用意されたオーダーのうち、まず初めにコーヒーに口をつけた。桐野と何某か話しながら、徐にフォークに手を伸ばす。 (うわあ!) 渡辺の手にしたフォークがケーキに入れられた瞬間、そしてケーキが渡辺の口に入った瞬間に、拓実の心臓は一気に心拍数を上げた。 今日は、自分でもなかなかの出来だと思う。大丈夫、大丈夫だ――。 ドキドキしながら、渡辺がすっかりケーキを食べ終わるまで、拓実は固唾を呑んで硬直しながらまっていた。 渡辺の訪問は、それほど時間はかからない。大抵はふらりと来て、その日のケーキとコーヒーをオーダーし、食べながら桐野と何某かの会話(おそらく店の様子などを聞いているのだろう)をして、すぐに帰る。 その日もやはり、それほど時間をかけず、渡辺は席を立った。 レジで会計をすませ、もう一度桐野と一言二言言葉を交わす。 「三原」 「は、はい!」 渡辺の身支度に、やや緊張を緩ませていた拓実は、いきなり呼ばれてビクンと硬直した。 拓実の慌てようが分かったのか、渡辺は少しだけ唇の端を上げて、目を細める。 「うまかったよ」 ただ、それだけ。 それだけを伝えると、渡辺は店を後にした。 「あ、ありがとう、ございますっ」 緊張に硬くなった、拓実の声に、後ろでに手を振って。 ドアのガラス越しに、夜の闇に消える渡辺の背中を見送りながら、拓実の心臓は、まだ、ドキドキと踊り続けていた。
-------------------------------------- 久々のオ拓?
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