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2007/07/14(土)
発つ鳥
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その日進哉はいつもより、早くアパートを出た。桐野のマンションから既に引越しは済んでいる。バイクで店のある駅前まで来ると、いつも通いなれた道になる。 この道をこの時間に通るのも、とりあえずこれが最後。 そう思うと、胸にこみ上げてくるものがある。
店につくと、丁度拓実が鍵を開けているところだった。 「なんだ、今日は早いな」 「……ハイ。おはようございます」 「おう。おはよう」 進哉がぺこりと会釈すると、拓実もいつもどおりにこりと笑ってくれた。
「進哉、お前メシ食ったか?」 「……いえ、その」 「抜いてきたんだろ? 仕方ねえ、オレがちょっとしたもん作ってやっから、それ食べろ」 「いや、でも、悪いです」 「いいっていいって!」 ロッカーでの会話。これも、今日で最後。 二人とも分かっているから、いつもより、少しだけしんみりとした空気が流れる。
いつも働いていたフロア。行き来したテーブル。コーヒーの入れ方は、桐野のマンションと、そしてこの店で学んだ。 全てのものがいとおしく、懐かしく、離れがたく思う。 拓実より早く来て、それぞれに一人で別れを告げようと思ったのだが、やはり仕込みのある拓実には叶わなかった。それが少し残念でもある。 「ほい、お待ちどう」 モップをかけ終わった頃、ひょいとプレートが出された。ベーコンエッグとクロックムッシュ、それからサラダと、デザート。 「ヨーグルトと、ニンジン?」 「食ってみろ」 これはなんだろうと不思議に思って、デザートではあるが先にちょっと口にして見る。爽やかな酸味はあるが、ヨーグルトほど刺激はない。 「コンデンスミルクとサワークリーム混ぜて、ヨーグルトっぽくしてあるんだ。こないだ知り合った友達が教えてくれたんだ」 ブラジル料理店で料理人をしている生粋のブラジル人。彼の母親が作ってくれたおやつだという。 「秘伝らしいから、店には出せないけどな」 だからなナイショだぞ、とウィンクしてみせる拓実に、進哉はにっこりと笑った。 「うわ、いいにおい!」 早速朝食にありつこうとしたところに、やってきたのは智裕。 「やっぱり食べてる! こんなことだろうと思ったよ」 「つーか、お前早くないか?」 「三原さんだっていつもよりうち出るの早かったじゃない」 考えてることは皆同じだよと、智裕は肩を竦めた。 「どうせ一之瀬も早く来ると思ったから、僕も早く来たんだよ」 早く来たからどう、というのでもないけれどと、進哉より年下の、けれど頼りになる親友が笑う。 「ところで何がナイショなの? このデザート、僕も食べたことないけど?」 「いや、だからな?」 こんな二人のやり取りを見るのも、今日がとりあえず最後。 「おはようございます。やっぱり皆、早いね」 ぎゃあぎゃあと痴話げんかが繰り広げられる中、次に来たのは司だ。 「つーか、お前ずいぶん早いな?」 「考えることは皆同じだよ」 司はそう言って、進哉ににこりと笑いかけた。
別にこれで、全てが最後ではないけれど、こういう雰囲気で店を開けるのは、今日が最後。だから、一時でも長く、このメンバーで働きたい。このままのカフェ・リンドバーグで過ごしたい。 それがそれぞれの願い。 進哉の新しい門出を祝福しつつ、もう少し、このままでいたいと思う。そしてそれは進哉自身もそうだ。
「でも、桐野さんは来ないな」 そろそろ桐野の定時だ。 「あの人は来ないでしょ」 進哉はくすりと笑って、智裕は時計を見てシニカルに微笑む。 「彼らしいけれどね」 司も同意する。
たとえメンバーが変わっても、それぞれの道に分かれても、この店は変わらない。 そして、ここを出た後も、それが終りではないのだと、進哉が桐野のマンションを引っ越す日、桐野は言った。 「終りの次にも、未来があるのだと、あなたが教えてくれました」 ありがとう、と。
いつもより早くセッティングが終わった店に、いつもの時刻に人影が立つ。 「おはようございます」 穏やかな笑顔と柔らかな声は、きっといつまでも変わることなく――。
---------------------------------------- 5年勤めた会社だと、色々あっても感慨深いものがあります。 退職まで一週間切りました。
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