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2006/01/31(火)
流行の(?)インフルエンザでいってみる。
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丁度お客様が引く、三時前の昼下がりのこと。マスターの桐野さんが僕を呼んだ。手にはコードレスの子機が握られている。 「なんでしょう?」 カウンター越しに尋ねると、桐野さんは僅かに困ったような顔で笑うと、 「いえ、大したことではないと思うのですが――オーナーが」 「……社長が? どうされたんですか?」 ドキンと心臓がなったのを押し隠すように、僕は声を抑えた。 桐野さんは、ふう、とため息のような笑みを浮かべて、 「どうも、倒れたそうなんです」
その後、僕の記憶は少しばかり途切れている――気がする。 仕事中に動転するなんて、社会人としてどうかしている。しかも僕は、カフェ・リンドバーグのフロアチーフで、一之瀬君や篠原君の模範とならなければならない立場だというのに。 わずかばかり残っている記憶は、倒れそうになった僕を支えてくれたのが篠原君であること。カタカタと震える僕に、「甘いもの食え」と、チョコマフィンを差し出してくれた拓実の、気遣うような笑顔。「こちらは大丈夫です。もし高見沢君さえ良ければ、少しオーナーの様子を見てきていただけませんか?」という桐野さんの言葉。「俺、がんばりますから。行ってきて、ください」と笑ってくれた一之瀬君の頼もしさ――。
制服のままコートを引っ掛けて、タクシーを拾い、とにかく彼の元へ急いだ。道はそれほど込んでいなかったけれど、なかなか着かないことにイライラする。気を静めようとタバコを取り出すと、 「すいません。禁煙車なんで」 ととがめられ、「すいません」と引っ込めた。
エントランスで鍵を回すのにすら手間取る。手が震えているのが分かる。エレベーターは上に昇っている途中で、なかなか下にまで降りてこなくて、僕は階段を駆け上がった。 (全く。あの人はすぐに無理をするから) 僕には「無理をするな。体調管理も大事な仕事だ」と言ってはあれこれ世話を焼くくせに、自分のことになるとずぼらなのだ。あの人は。 息を堰切りながら目的のドアの前まで来て、インターフォンを押す。 暫くして 『はい』 と誰何する声があった。 かすれて、少し弱弱しい気がする。心臓がヅキリと痛む。 「僕です。高見沢です。入ってもよろしいですか?」 知らず胸元を押さえてそう答えると、少し沈黙があった。 『ああ――いや』 煮え切らない応答に、僕は心を決めた。 「入ります。いいですね?」 鍵を握って上下のキーをまわし、 「隆之さん!」 僕は玄関に転び込んだ。 同じくリビングから、隆之さんがふらりと出てくる。パジャマにガウンという姿は見慣れているが、こんなに憔悴した彼は見たことがない。一昨日あったときは、あんなにも頼もしい人だったのに! 「つかさ」 弱弱しい声で僕を呼び、足を踏み出すと、その拍子にバランスを崩したのか、彼はふらりとその場にくず折れた。 「隆之さん!」 靴を脱ぎ捨てて、駆け寄る。 「大丈夫ですか? ああもう、無茶をするから!」 「いや、すまない。ちょっとしたアクシデントだ」 「アクシデントじゃないですよ。もう!」 どうしよう、どうしたらいいんだろう。思わず泣きそうになる。 「病院には行きましたか? お医者様は何て?」 「い、いや、それが……」 「隠さないで言ってください!」 「いや……インフルエンザらしい」 「……」 「いやあ、俺としたことが。注意していたんだがな」 ははは、と力なく笑う隆之さん。 僕はすっく! と立ち上がって、そのまま玄関までずんずんと歩いた。 「つ、司?」 よろよろと立ち上がる隆之さんの気配がする。 「こないでください!」 僕は心を鬼にして、隆之さん、いや、社長に向かって叫んだ。 「インフルエンザですって? なのに僕を呼んだんですか? 僕は飲食店のフロアチーフですよ?!」 僕の立場、分かってるんですか?! 「いいですか? インフルエンザが完治するまで、僕はあなたに会いませんから。そのつもりでいてくださいね!」 そういい置いて、僕はその場を後にした。
エントランスを出ると、冬の風が首筋を掠め、僕は思わず襟をかきあわせた。 去り際、ドアの合間から見えたのは、憔悴と絶望に目を見開いている、愛しい人の姿――。 (隆之さん、すいません――) 思い出すだけで、目頭が熱くなる。 でも――。 あれだけ口をすっぱくして、うがい手洗いきっちりしてくださいって頼んだのに……。 僕の苦労なんて構わずにいたあなたが悪いんです。 (そもそも、いったいどこでうつされてきたんですか?) 僕は駅までの道をとぼとぼと歩きながら、胸に黒い風が吹くのを感じた――。
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由羽さんのお言葉に甘えて変なわたつか〜。 単に鼻先でドア閉められて「治るまで会いません!」って言われてショックな渡辺さんが見たかっただけのネタです。 きっとね、行きつけのゲイバーにイイコがいるんだよ。そのコにうつされたんだよ。それ知ってるから司怒ってんだよ。なんてね。
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