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2019/04/14(日) 湘南接骨院
              止まる息の中 1 

無くて七癖と言う様に誰でも癖は持っている物だが、友人の矢島の癖は一風変っていた。それは貴方に話しても恐らく信じてはくれないだろうと思うが、それは『息を止める』という事なのである。それは癖と言うよりも、一芸に近かった。
私も始め友人から聞いた時には冗談かと思って信じなかったが、たまに彼の家に遊びに行った時に笑いながら訊いてみると、彼は頗る真面目にそれを肯定するのだ。
私も不思議に思ってどうしてそんな事をするのかと聞いてみたが、彼は首を振るばかりで中々話してくれなかった。
 しかし話してくれないと尚聞きたくなる物だし、又あまり変な事なので好奇心に駆られた私は何処までも五月蠅く追求したので、矢島もとうとう笑いながら話してくれた。
『その話は、誰でも五月蠅く聞くんだ、その癖皆な途中でバカらしいと笑ってしまうんだ。
で、僕もあまり話したくないんだ。まあ話を聞くよりは自分で一寸と息を止めてみたまえ、始めの20〜30秒は何でもないかも知れないが、しまいになるとこめかみの辺の脈の動きが頭の芯まで響いて来る。
胸の中は空っぽになってワクワクと込み上げる様になる、遂に、たまらなくなって、ハァーと大きく息を吸うと、胸の中の汚いものがすっかり吐き出された様に清清しい気持ちになって、虐げられていた心臓は嬉しそうに生れ変った様な新しい力でドキンドキンと動き出す。 僕はその胸のワクワクする快感がたまらなく好きなんだ。
ハアーと大きく息を吸う時の気持ち、快い心臓の響き。僕はこれ等の快感を味わう為には何物も惜しくないと思っている』
 矢島はそう言って、この妙な話を私が真面目に聞いているかどうか確かめる様に、私の顔を見てから又話を続けた。
『しかし、近頃一つ心配な事が起って来たんだ、よく阿片中毒者、いや、そんな例を取らなくてもいい、煙草を吸う人でも酒飲みでも、それ等の人が始めのうちはこんなものか、と思ってそれを続けて行くうちには何時しかそれが恍惚の夢に変わる、こう習慣になって来ると今度はその量を増さなければ満足しなくなる。
馥郁たる幻を追う事が出来なくなる。それと同じに僕も最初のうちは40〜50秒から1分もすると全身がウズウズして言い知れぬ快感に身を悶えた物なのに、それがこの頃は5分になり、10分になり、今では15分以上も息を止めていても平気なんだ、だけど僕は少しも恐れていない、この素晴らしい快感の為には僕の命位は余りに小さいものだ、それに海女さん等も矢張り必要上の練習から、随分長く海に潜っていられるということも聞いているからね、海女と言えばどうして彼女等はあの戦慄的な作業に満足しているのだろう、
僕は矢張りあの舟べりにもたれて大きく息する時の快感が潜在的にある為だと思うね』
矢島はそう言って又私の顔を覗く様にして笑った。しかし私はまだそれが信じられなかった、息を止めてその快感を味わう! 
 私はそれがとてつもない大嘘の様に思われたり、本当かも知れないと言う気もした、その上15分以上も息を止めて平気だと言うのだから。 矢島は私の信じられないでいる様子を見てか、子供にでも言う様に、私の顔を見て
『君は嘘だと思うんだね、そりゃ誰だってすぐには信じられないだろうさ。嘘か本当か今ここで実験して見ようじゃないか』
 私はボンヤリしていたが矢島はそんなことにお構いなく、
『さあ、時計でも見ててくれ』
そう言うと彼は椅子深々と腰を掛け直した。彼がそう無造作にして来ると、私にも又持前の好奇心が動き始めた。『ちょっと、今4時38分だからもう2分経って、きっちり40分からにしよう』 と言うと矢島は相変らず無造作に
『ウン』と軽く言ったきり目をつぶっている、そうなると私の好奇心はもう押え切れなくなった。『ようし、40分だ』 
私は胸を躍らせながら言った、矢島はそれと同時に大きく息を吸い込んで、悪戯っ子の様に眼をパチパチして見せた。 私は15分間経って、やや不安になって来た、耐えられない沈黙と重苦しい雰囲気が部屋一杯に覆いかかっている、墓石の様な顔色をした彼の額には青黒い静脈が虫の様にうねって、高く突き出た頬骨の下の青白い窪みには死の影が浮遊して来ている。
                (続)


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