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2019/04/18(木) 駅前水飲み場
              初の訪問 2
 
 これに反して黒田開拓使長官のタクト棒がアメリカ製であった事は、至る所に思いもかけぬ形で記念されている。あの京都式の都市計画すら、一般にはアメリカ式と思われているほど、札幌の街には、古典アメリカの表情が所々に残されている。
 古典アメリカ。それはリンカーンが象徴である。リンカーンと共に革命を闘いつつ実業家から北軍の少将となり、勝って後、農商務長官となっていたホレス・ケプロンこそ、黒田の乞いを入れて1871年〜75年まで、北海道開拓事業の基礎を設計した恩人である。
エルムもまたアメリカから渡った街路樹とばかり私は思い込んでいた。
 かつてのサッポロベツ原始林を忍ぶ事が出来そうだ。落葉を布いてそそり立つ巨木はすべてエルムであった。
そう思って見れば、道の名物の大街路樹、お化けの様な柳とエルムも、土地生え抜きのものだった。気安さで、アメリカの教師が教えたエルムという樹名に親しんで行った事だろう。
 私は記念品を買うため、札幌市内のある小路に案内して貰う事にした。買いたい記念品は馬の鈴だった。
あのドーナツ型の馬鈴、昔の物は良質で音が良いから、この小路の中の古道具屋を目当てにしていた。
南二条にある一軒の古民具屋で私は十個の馬鈴を買った。ドーナツ型のでなく、昔の映画で注意深い人は見た筈の、鈴蘭型の小鈴である。
馬具屋では英国式だと教えてくれたが、古くから札幌で作るもので、皮のベルトに何個か上向きに並べて着ける。  北海道の農村について私は知りたいと思う。
内地の農村とは、まるで違った歴史を持っているからだ。早い話が内地の農村で、明治初年の一揆と十年代の自由民権闘争に無縁であった所は何処にもない。
 北海道がその例外となっているのは、札幌と共に北海道開発が始まったのが明治4年からだったと言う、そのような年次の若さより、もっと根本的な事情がある筈である。
 明治維新政府が大きく分裂した明治7年から士族屯田兵制度を布いたのは、七年前「官軍」の主力となった西部諸藩から新たな内乱が起るのに備える一石二鳥の妙策であった。
ところが西南戦争後、土地と民権のための自由民権闘争の方に到る大波が明治政府を根底から揺さぶった革命期に当たって、士族屯田兵は急速に進行している。
 同時にその頃から、旭川を目標とする道路計画が鋭意強行された事を忘れてはならない。
そしてこの道路開発の重労働が専ら「懲役」と当時呼ばれた囚人労働によって行れた事を忘れてはならないのだ。
最後にこれらソラチの囚人の大部分が、内地全土の殺人強盗の最凶悪犯と内地全土の自由民権運動の最精鋭政治犯から成っていた事を忘れてはならないだろう。 
 自由民権の大衆運動が国会開設請願の形で出発した第一年目の明治十二年、岩倉右大臣は全ての官有の山林、鉄道、製造所を皇室財産に収め、陸海軍全部を皇室財産で賄う事を主張している。
 私は思うが、明治十四年の巡幸は「東北御巡幸」と称せられて、河野磐州が指導する東北自由党の全地帯を、各地町村の「豪農巨商」を「御小休所」に指定しながら練って行くのだが、その秘められた目的が終点の北海道にあったのだろうと言う一点は、今度初めて気が付いた事だ。 
 懲役と屯田兵による旭川方面の開拓は進行する。将来ここに皇居を移すと声明して、旭川の高台に離宮予定地を設定したのは明治22年、皇居を置くからには、皇室の藩屏もここに土地を持つべきであると華族に呼びかけて、官有地から目ぼしい所を払下げた。
屯田兵の資格を士族から一般農民に広げたのは明治23年の事だ。
 皇居は移らなかったが、北海道中最も保守的な都市旭川が、こうして生まれた。
旭川の明治史は、そのまま北海道の明治史である。
 札幌に残る古典アメリカの「大望」の文化は、ここ旭川の明治の支柱に阻まれ、酷使され、やがて秘かな民心となって、啄木や有島武郎等の悲劇を孕んで行くのだ。
 私は余りに多くの昔を語り過ぎだろうか? 「歴史マニア」と呼び、皆で笑って結構だ。
 北海道の晩秋から初冬の、あの深い落着きが在るのはその歴史のためであるに違いない。 北海道の人心の前史と後史をはげしく分離したものは、終戦直後から2・1ストにいたる大嵐であった。一番深い思いとなっている。 
2・1スト迄とその後を背景に、朝鮮戦争と条約と破防法の現在史で、鋭く心の内に現像されているのだ。 茶志内から私は小樽、ついで余市と一泊したのだが、小樽も余市も決して進歩的な性格の土地ではなく、それにはそれの長い歴史が伴っている。
余市では私は学ぶ時間をゆっくりと持った。
「秋味・鮭の旬」の味を何時までも私は忘れられない。
 五稜廓に立つ感情は、時期を遅らせただけの深さはあった。  良くも悪しくも「占領日本」から出発している今日の「独立日本」である我らの国、その「危機」は北海道に局限されているのではない。
それはどの内地にいても自明の事なのに、今ここ五稜廓に立って眺望する時に無量の感を呼ぶ。
 ここ五稜廓に凝集される蝦夷地の過去は、明治政府に封土を奪われた徳川遺臣たちの共和国宣言となって濃い印象を残している。
 五稜廓はそもそもロシアの侵略を怖れて、幕府が築いたものであり、いわんや日本国土上最初の共和声明の記念の場所となるなぞとは、誰が予測したであろう。
五稜廓に凝集される徳川の過去も、旭川に集約された明治の既往も、この麗しい光景の中に何時か消し飛んで、郷土の想念を、この麗しい光景の中に、私はほしいままにする。
                    (了)


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