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2019/05/20(月) 公衆電話
          空間論 1
 
 ヘーゲルの弁証法が生まれる周囲には、その頃の青年ドイツ派ロマン的皮肉アイロニーがあると考える人々がある。ロマン的皮肉とは、ヘーゲルの友人のゾルゲルに代表される一つの表現、自分達の凡ての行いや言葉のすぐ側に
「黙ってジッと自分を見つめている眼差し」があると言う不安と怖れが存在する。
自分の反省の中にある、限りない圧迫感である。自分の中に、いつでも自分を滑り抜けて、自分を見入る眼がある事への苦悩である。 この皮肉(アイロニー)、不安は、その頃の青年ロマン派の人々の合言葉であり、共通にあったドイツ近代精神の流れでもあったと思う。
 この不安の凝視は、存在論で言うなら、本質的凝視とでも言う、如何にもドイツ的な、北方ゲルマン的な眼差しを感じさせる物がある。近代人の視覚の中に類型される所の視覚であり、ドイツは、ロマン主義的アイロニーにまで盛り上るのに150年の後れを取った視覚でもある。ハイデガーの存在論も、この不安の凝視を哲学の中に再現している。そしてそれを、「生きた空間」と表現して、距離の不安の言葉を持って、同じ主題を取扱っているのだ。
ハイデガーはカント的に、初めから形式的に空間なる物があるのでは無く、そんな空間は只の「間隔」の世界である。自分があるべき自分の位置から外れている時、その時初めて、自分からの「距離」即ち、離れ慣れている不安としての空間が生まれると言う。この存在が存在から距てられている怖れが、生きた空間の本当の感じであると考えるのだ。
サルトルが常に表現する所の不安の空間の意味でもある。 自分が、自分から抜け去り、自分を見ていると言うロマン的皮肉も、この自分から自分が距たっていると言う不安も、その根柢にあるべき所を得ていない知識人の嘆きが共通に流れている。
 ハイデガーの弟子であるオスカー・ベッカーは、彼の論文「直観的空間のアプリオリ的構造」の中で、その立場から、空間的次元を「生きた空間」として取扱う試みをした。 彼は、一次元を、「何物かに向う所のこころ」と考えるのだ。
自分が、一つの方向への距離を感じそれに向って、真っ直ぐに向う事である。(日本語で「思う」は、恋をする、好意を持つ、そちらに向って、顔面を向いて方向づけるの意味を持っていて、段々「考える事」に転化するのである。)ベッカーでは、その場合、その方向が「ひたすら」である姿勢が必要であると言う。              
                (続)


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