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2019/05/22(水)
工事予告
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空間論 3
例えば、小説を読んでいて使う所の「気持が好い」と言う言葉の取扱いを考えよう。この言葉に対するに当って、如何なる方向に依って、如何なる枠の中でこれを捉え得るかと言う場合、「気持が好いと言った」とする感じた立場があり、それを小説は表現する一つの「面」を持たなければならない。ここに小説の「空間的性格」がある。 この方向と距離と枠が自由になる時、ここに演劇の世界が展けて来る。そこでは、ただ「気持が好い」とだけ語らせる。そして、無限の観衆の角度に従って、各々の立場からそれを受取らせる。 往々にして、劇作家は、自分の中に、無限に分裂した自己を持っていて、小説にするには余りにも多くの自分が有り過ぎていて、それは劇の姿を持って彼自身の無限の距離感を表現するとも言える。 この絵画と彫刻、小説と演劇の両者それぞれの芸術的空間が、二次元と三次元の両性格を持っている事は興味あるが、この両者とも個人の自我が、自我との対決の距離感の上に構成されていると言えるのだ。 映画の場合は、その見る眼はレンズであり、それを描くものはフィルムであり、それを構成するものは製作者・委員会である場合、この集団尾的性格との間の距離の上でしか成立し得ないと考えられるのだ。 集団的制作者と、集団的観衆とは、ただ一つの人間群像であるにも拘らず、歴史的時間は、未来への「問の記号」として、その両者の隙間の中に差し入れるのである。大衆の、その歴史の中に、自らを切断する「切断空間」として、カットが、その時その時に答の試みを出すのである。 ここでは既にに弁証法的主体性が、その論理的根幹となって新しいバトンを受け次ぐべき課題が提出されると言うべきである。この個人の存在論で用いる「不安と怖れ」との言葉の代りに、「自分自身を否定の媒介とする」と言う考え方に入れ換えて見る時、個人から集団への大なる飛躍が初めて可能となる。 エーテルが物質の「中間者」としている様に、凡ての物を結び付けていると考える立場を取ると、昔のカント流の形式的空間に帰って行くのだが、「媒介」が「無媒介の媒介」として、自分を切って捨てる事で自分が発展して行くと考える時「不安」は「自分自身を否定の媒介とする」と言う考え方に代って、新しい弁証法的な空間論を構成する事になるのだ。 カントの形式的空間から逃れようと、今、哲学はもがいている。 「生きた空間」と言うテーマは、芸術の空間論で大切なテーマであり、今後の課題にもなっている。 (了)
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