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2019/03/29(金)
紅紅・ランチ
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ある死 5
f氏の死後、k子はさんざんグレてしまったが、3ヶ月ばかりして、仙台に行ってしまった。またそこで夜の店に出ているという話である。 それはそれとして、f氏の面白い言葉である。 「田舎の商売女は危ないですよ。すぐにムキになって来ますからね。そこにいくと、東京の商売女は安全なもので、決して真剣になんかなりませんね。何かこう、愛情以上の大きな伝統といった様なものがあって、男によりも、その方に余計頼れるんでしょうね。」 ここで、文学者の頭の中には、おかしな連想が湧くのである。 「狭き門」の中のアリサは、清浄な結合という宗教的な伝統に寄りかかって、容易にジェロームの腕に身を投じなかった。 f氏の夜の女観がもし正しいとすれば、例えばk子は、混濁そのものを無垢にする特殊な伝統に寄りかかって、容易にf君の腕の中に飛び込んで行かなかった、のかも知れない。少くともそういう風に考えなければ、小説に成りにくいのである。 f氏はまた、ある時言った。 「どうにもならないように思われる事は、案外どうにかなるもので、どうにでもなると思われることが、実はどうにもならないんです。」 酔ったあげく、それをくどくくどく説き立てたのであるが、真意が奈辺にあったかは私は知らない。 f氏の死は、恐らく自殺ではなかったろう。万一自殺であったとしても、いろいろな原因があったのだろう。 けれど、k子と彼との関係において、何かしら、f氏にはk子が、必要ではなかったが必要以上のものであり、k子にはf氏が、必要ではなかったが必要以上のものであったろう、と思われてならないのである。 それがf氏の自殺の何分の一かの原因でもなかったのなら、その欲望が情熱にまで高まらず、その情熱が信念にまで高まらなかったためなのである。 こういう事柄を、これを一般に言って、私が余り釈然とない所以は、以下の事がはっきりしないからに外ならない。 小説というものは、必要事にだけで止まるリアリズムでは成立し難い。 欲望や情熱のリアリズムまで高まらなければ、書きづらい。 f氏の死が自殺であって、そしてその原因がk子とのことにあるとすれば、直ちに一篇の作品が出来そうである。それで作品の骨格は出来上るのであって、他の特殊性、即ち雰囲気や環境や性格などは、努力によって如何ともなるだろう。 スタヴローギンにとっては、自殺するに当って、一本の紐は必要なものであり、一片の石鹸は欲しいものであったろう。 そしてどちらがより多く重要だったかと言えば、紐よりも石鹸だったろう。 創作家にとっては、紐の発見は容易であるが、それはその辺にいくらも転っているが、石鹸の発見は容易でなく、それはそこいらにやたらにあるものではない。 f氏の事をこんな風に述べたのは、彼を辱める事になるのであろうか。私はそうでない事を希望する。こういう考え方をすることによって、彼の真実に探り入る糸口が掴めるからであり、また我々自身の真実に探り入る糸口も掴めるからである。 そしてなお言えば、文学は必要なものに奉仕する低劣さを止めて、必要以上のものに奉仕しなければならないし、我々は必要なものにも多く事欠く現代においてさえ、必要なものを蔑視して、あらゆる欲望を燃え立たせるべきだと、そう信じるのである。 (了)
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