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2019/04/03(水)
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時「将来・未来」 3
来るを迎える事に於いて将来は、又去って行く事を見送るに於いて過去は成立するとすれば、その来るは何処からであり、又その去るは何処へだろうか。 考察を厳密に体験の範囲に限定する限り等しく「無」又は「非存在」と答えなければならない様にも思われる。 さて、将来は未だに有らずとのゆえを持って非存在と看做するには多分多くの異議を呼ぶ事はないだろうが、これに反して過去即ち既に有った物を単純に非存在への移行と同一視する事には力強い反対意見が起るだろう。 人は先ず過去が囘想又は記憶の内容となって存在し又影響を及ぼすことを論拠として、それの非存在性を否定するのだろう。しかし、囘想の内容として主体の前に置かれるのは、実は反省に依って客体化された何物かであり、それの有り方は過去ではなく現在なのである。 回想は現に生きる主体の働きとして、それの内容は係る主体に対する客体として存在するのである。 次に、人はこう言う問いを発するだろう。体験されるものは何等かの形に於いて有る物、従って「無」や「非存在」はそれ自らとしては体験され得ないものである以上、非存在への移り方も体験を超越する事柄でなければならず、かくては時の内部的構造に続する一契機として体験されると言う過去も、結局空想に過ぎないのだろうか。 将来に関しても同じ論法が適用され得るとすれば、体験上の事柄としては結局現在のみが残るのではないかと思う。 さてこの異議に対して、我々は、無や非存在が単純にそれ自らとして体験されない事は、決してそれがどんな形に於いても体験されない事は意味しないと答えよう。 単純にそれとしての他より切離されたものとしての無や非存在は、実は反省によって客体化される意味内容である。 係る物としてそれは却ってむしろ一つの有であり一つの存在でもある。 無を無としていた単純に選ぼうとする働きは、却ってそれを有として存在としてのみ手中に收め得る物である。 それにも拘らずそれが論理的矛盾や背理として葬り去られず、思惟され理解される意味内容として成立し得るのは、それが体験に基づき体験に源を発する事柄なのである。 体験はこの場合にもあらゆる論理的疑惑を打ち払うに足る。欠乏・空虚・消滅等全てが無を契機とする事柄の体験に於いて又それを通じて無は体験されるのである。 時の体験に於いても同樣の事態が存在する。現在は将来より来るや否や直ちに無くなって行く。その様に有るもの存在するものが無くなる事に従って現在に於ける過去の体験こそ無を体験する事に外ならない。 即ち、時は生の存在の最も基本的な性格として、それの体験は無の体験の従ってそれらの思惟や理解が最も深く生きる泉なのである。 無くなる事の体験を反省に於いて処理する事に依って我々は、無そのものの思惟や理解へと進み得るのである。 過去とは無くなる事・非存在に陥る事であり、過去となった物は無き物で有ると言う真理を、体験が明白に教える所に従いつつ素直に承認することは、「時と永遠・未来」の問題の解決に向う途上で、実に基本的意義を有する極めて重要な第一歩である。 等しく肝要なる第二歩は「将来」を正しく理解する事である。我々は先に、無き所より来る事を迎える事を将来の体験の本質とし、従って現在と区別される限りに於いて、将来を非存在とするとの考え方を一時的に一応許容したのである。 (続)
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