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2019/05/04(土) 巨大ふわふわ
              まぼろしの街 3

  この老人はいつの間にこのベンチに来て、寺田氏を観察していたのか、と氏はやはり老人の顔を見詰めたまま黙っていたのである。
「どうだ、食わないか?」 
ハッハッハと老人は笑いながら、それまでモゾモゾやっていた毛布の懐から、一個の新聞紙包みを出して開いた。そして食い残しらしい4・5本のバナナが、急に氏の食欲を呼び覚ました。手を出すのじゃない、手を出すのじゃない、とわずかな理性が思い到りながら職安に多数いた人達の末路を想像させた。
がその時、氏は到底その誘惑には勝つ事が出来なかったと述懐した。「貰ってしまってもいいのか?」 
若い寺田氏はそう言ったつもりだったが、急に覚えた口中のネバネバしさで、それは唇から洩れずに消えてしまった。が、次の瞬間には、理屈も何もなく、氏はもう件の老人と並んで、仲良くそのバナナの皮を剥いていたのだった。
そしてその味のなんと咽喉に柔らかく触れた事だろう!
「煙草はやるのかい?」 
と食い終わったところで老人が訊いた。食後の一服を氏は予想していなかったが、そう問われて見ると、押えがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々まで漲って来るのだった。
「おや、もう吸ってしまったかな、確かにまだあったと思ったが、いいや、まだやっているだろう、ちょいと行って貰って来よう。」
氏がまだ答えない内に、毛布の中で手を動かしていた老人は、身体の何処にも煙草がなかったと見えて、そんな事を呟くとそのままベンチを立ち上がった。 
そして老人が煙草を持って帰って来るまで、氏の胸を往来した思いは、過去への呪いでもなければ前途への想像でもなく、今去って行ったその老人は、果たしてどんな種類の人間かという事であったと言う。
 その服装で見れば、いかに土地不案内な寺田氏にも、老人は乞食以外の何者にも見えなかった。しかし乞食と言ってしまうには、その言葉の端々やそれから態度に、何か紳士的な物が感じられる。煙草を貰って来ると言った言葉から考えれば、もしかして老人は人夫請負人で、貰いに行った先はその仲間の家ではないだろうか? もしそうだとすれば自分はこれからどうなるのであろう? 
彼等は一度交渉を持てば、その恐ろしい集団の力で、到底相手を逃さない物と聞いている。だが、それほどの悪人が、己れの商売をするのに、煙草銭さえも持っていないとはどうしたのだろう? 
もし老人が乞食ならば、自分は既にその乞食から一度の食を恵まれたわけである。上京して来てわずかに3月、もう自分は乞食の社会へ一身を落したのではないか、と氏の胸には、そんな淋しい予感ばかりが去来した。
「さあ、ハイライトだが」 と老人が元気に帰って来たのは間もなくだった。 氏はその時の誘惑にも、到底勝つ事は出来なかったと言っている。北海道かそれとも福島県か、何処かへ送られるのなら、何も構わず貰ってやれ、とそんなさもしい気持になったそうだ。 新しいハイライトの袋をプツリと破いて、その一本に火を点けた時の喜び! 
氏は感謝と言う言葉が持つ意味を、その時始めて知ったと思った。
 胸一杯に吸い込んで、それからそろそろと出来るだけ長く、静かに静かに吐き出して、吐き切ったところでしばらく眼を瞑って、氏は空へ出て行く紫の煙の、氏の腹の中からいろんな汚物を拭い去って行く清々しさに陶酔した。
「財布を投げちゃったりして、アブレちゃったのかい?」
 老人は喫茶店のテーブルにでも凭れかかった調子で、ひどく鷹揚な口のきき方をした。氏の胸には朝からの、いや3月この方の苦しさを感じる健康が、次第に回復して来た。苦い苦い都会の経験が、いろんな形で思い出された。 老人の問いに幾分警戒の心は動いた。
後で考えて見ても説明の出来ない気持ちで、その時氏は現在まで全てを老人に話したいと思ったのである。が老人は、氏が秘かに期待していた北海道行き人夫の話は持ち出さなかった。
「じゃ今夜の宿がないってわけだな?」
と同情に満ちた声で言ったのが、聞き終った時の老人の最初の言葉だった。
「だがまあいいやな、若いんだから。そのうち芽の出る時もきっと来るだろうよ、クヨクヨしないでやってるんだな。で今夜は、何なら俺の所へ来てもいいんだが、来るかい? 
なあにお互いだから遠慮も入りはしないが、とにかくここから出る事にしよう。もうお巡りさんの廻って来る時間だ、見つかるとまた五月蝿い。」
お巡りさんと言われて、寺田氏はハッとなったと言う。それまで考えても見なかった淋しさが、潮の様に氏の胸を取り囲んだ。氏は老人に続いて、何を考える暇もなく立ち上がった。そして噴水のわずかだった休息から、今はすっかり暗くなった新宿のアスファルトの道へと出たのである。 道路へ出て2、3歩歩きかけた時、
「そうだ、これから別荘へ行かないか、疲れているんだろう?」              
             (続)


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