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2019/05/09(木) ビル建築中
             まぼろしの街 8

 氏はまたある日新宿にかの老人を訊ねて見たが、幾晩氏があの思い出のベンチへ寄ろうとも、ついにその老人を見る事は出来なかった。
 そうして2年の月日が経ったのだが、2年たった夏の始め、氏は思いがけなく例の老人を、歌舞伎座の華やかな特等席に見出したのである。
 海老蔵の芝居が、トントンと気持良く運ばれている内に、不図何かのきっかけで、特等席に眼をやった氏は、そこに、おお、あの不思議な老人と並んで、輝く様に盛装した美女が、使用人でもあろうか、これも美しい若い女に2・3才ばかりの子供を抱かせて、静かに舞台に見入っているのを見たのである。
忘れることの出来ないその面長な顔、瞳、唇、かの老人が、何とモーニングらしい装束で、澄まして、ゆったりと並んでいる事よ! 寺田氏の驚きがどんな物であったか、そもそもかの老人は何人であるのか、今見る老人は明らかにかつての乞食ではない。がこの時、席では老人と彼女は、氏の顔を思い出しでもしたのか、あるいは特別な時間でも来たのか、ちょうどこれも席を立って帰り始めた。
 寺田氏はうち騒ぐ人々の間を転ぶ様に通り抜けて、一度方向を間違えながら、懸命に玄関へと走り出た。走り出るのと、老人と彼女等が自動車に乗るのが一緒だった。
あっと思う間もなく、自動車はつい宵闇へ走り去ってしまったのである。チラと見た運転手の顔に、何か見覚えがある様に思ったが、その時は氏には思い出す事が出来なかった。
しかし氏は、まだ絶望はしなかった。その自動車のナンバーを周囲の明るさでハッキリと読み取ったのだ。
劇場の人々が彼等に対して丁寧な態度や、運転手のそれに対するうやうやしい態度は、彼等が相当に名のある老人、名のある夫人である事を物語っている。あの自動車も彼等の自家用車に違いない。
 後に、自動車のナンバーを調べて、照会して見た所、かの老人が豪邸住まいの名家、七尾医師である事が分った。 
氏はなんらユスリがましい気持ちを持ったわけではなかったが、それを知ると、何か説明しがたい物に惹かれて、氏はある一日、麹町の七尾邸を訪れたのである。そしておお、その愚かな行動が、氏をこれほどの不運な境遇へ導こうとは! 
 老人の話によると、老人は前から適当な青年を物色していたと言う。
「履歴書を見たり、一日中、構えてその青年を試していれば、それが人間としてどれだけ欠点のない男かどうかは分るではありませんか。」
 あの女が歌舞伎へ連れて行った赤ん坊は、何処か通りすがりの好人物そうな青年の子供なのだった。
 七尾夫妻は子供の欲しい一念から、通りすがりに知り合った青年を老人の妻に性的満足を与えつつ子種を宿させた。そしてその後、彼等はその金と権力を持って、その行為を絶対に口外しない代わりに100万円を与え、口外した青年を監視し、殺そうとしたと言った。
老人は、私にそうした話聞かせたのである。
 寺田氏が老人の手配した者に、追い回され殺されそうになったりした挙句、精神的に耐え切れなくなり、遂に自殺したと聞いて私はその話をまざまざと思い出したのだ。                    
                  (了)


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