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2019/03/31(日) ポスター
社民党

2019/03/30(土) サーフボード陳列
         こんな心象風景があった

 かつての一つの心象風景が現実の風景に重なった時に、そこにまた別の世界が現れて来る。たとえば目の前の魚の形態はあまりに異様で、その体の中に時間を隠し持っている。
その魚の違和感は周囲の空気を緊張させ、こちらに防御の姿勢を取らせるのだ。
私はその為に、人知れず奇妙な孤立無援の戦いを行わなければならないのだ。
魚は禁忌に近い存在で、決して触れる事の出来ないものなのだ。これは言葉のアヤでもなんでもなく、見ると実際に足がすくんで動けなくなってしまう。
料理をしようにも手がつけられない。こんなバカ気た事があるだろうか、我ながら信じられない。
 私は買い物に行き、魚屋の前を通る。色々な種類の魚が水をかけられて平たく並んでいる。きっとこれは魚は仮死状態を装っているに違いないと思ってしまう。
私には先刻承知、騙されはしない。
 特にあの目、魚眼レンズという名称がある位だから、180度の視界でこちら側を彎曲した世界として見ているのだろうか。
私は視界に入らない様にその前を通り過ぎる。
 その時魚屋の主人が魚を手に取って、包丁で上手に切り身にして行く。切り身になった魚はバットの上に行儀良くきれいに並んで行く。私はその様を狐につままれた様に思った。
きっとあの魚は巧妙に騙したつもりだったに違いない。しかし私には解っている。
 頭と骨と尾になりながらも私の目にはちゃんと虚空の水の中で泳いでいる。
まさしく「魚は偏在している」と言えるのである。
 そんな事を妄想している私は滑稽であって、こんな劇を見ているのは実は魚の方かも知れない。大体が、虚無が魚に具現化されていると思い始めた時にこの荒唐無稽な芝居の幕は上がっていたのだろう。
虚無の水槽に魚を飼い餌を撒きながら、逆にその魚に釣り上げられるのではないかと怯えて心配する日々。
 ところで最近妙な思いが芽生えて来た。空を飛んでいる鳥を見ていると、魚に見える時があり、どうも以前から気味が悪いと思っていたのだ。
まさしくそれは、魚に確かに見える翼が生えたのが「鳥」と言う生き物なのだと。
                  (了)

2019/03/29(金) 紅紅・ランチ
                 ある死 5

 f氏の死後、k子はさんざんグレてしまったが、3ヶ月ばかりして、仙台に行ってしまった。またそこで夜の店に出ているという話である。
 それはそれとして、f氏の面白い言葉である。
「田舎の商売女は危ないですよ。すぐにムキになって来ますからね。そこにいくと、東京の商売女は安全なもので、決して真剣になんかなりませんね。何かこう、愛情以上の大きな伝統といった様なものがあって、男によりも、その方に余計頼れるんでしょうね。」
 ここで、文学者の頭の中には、おかしな連想が湧くのである。
 「狭き門」の中のアリサは、清浄な結合という宗教的な伝統に寄りかかって、容易にジェロームの腕に身を投じなかった。
f氏の夜の女観がもし正しいとすれば、例えばk子は、混濁そのものを無垢にする特殊な伝統に寄りかかって、容易にf君の腕の中に飛び込んで行かなかった、のかも知れない。少くともそういう風に考えなければ、小説に成りにくいのである。
 f氏はまた、ある時言った。
「どうにもならないように思われる事は、案外どうにかなるもので、どうにでもなると思われることが、実はどうにもならないんです。」
酔ったあげく、それをくどくくどく説き立てたのであるが、真意が奈辺にあったかは私は知らない。
 f氏の死は、恐らく自殺ではなかったろう。万一自殺であったとしても、いろいろな原因があったのだろう。
けれど、k子と彼との関係において、何かしら、f氏にはk子が、必要ではなかったが必要以上のものであり、k子にはf氏が、必要ではなかったが必要以上のものであったろう、と思われてならないのである。
 それがf氏の自殺の何分の一かの原因でもなかったのなら、その欲望が情熱にまで高まらず、その情熱が信念にまで高まらなかったためなのである。
こういう事柄を、これを一般に言って、私が余り釈然とない所以は、以下の事がはっきりしないからに外ならない。
小説というものは、必要事にだけで止まるリアリズムでは成立し難い。
欲望や情熱のリアリズムまで高まらなければ、書きづらい。
 f氏の死が自殺であって、そしてその原因がk子とのことにあるとすれば、直ちに一篇の作品が出来そうである。それで作品の骨格は出来上るのであって、他の特殊性、即ち雰囲気や環境や性格などは、努力によって如何ともなるだろう。
 スタヴローギンにとっては、自殺するに当って、一本の紐は必要なものであり、一片の石鹸は欲しいものであったろう。
そしてどちらがより多く重要だったかと言えば、紐よりも石鹸だったろう。
創作家にとっては、紐の発見は容易であるが、それはその辺にいくらも転っているが、石鹸の発見は容易でなく、それはそこいらにやたらにあるものではない。
 f氏の事をこんな風に述べたのは、彼を辱める事になるのであろうか。私はそうでない事を希望する。こういう考え方をすることによって、彼の真実に探り入る糸口が掴めるからであり、また我々自身の真実に探り入る糸口も掴めるからである。
そしてなお言えば、文学は必要なものに奉仕する低劣さを止めて、必要以上のものに奉仕しなければならないし、我々は必要なものにも多く事欠く現代においてさえ、必要なものを蔑視して、あらゆる欲望を燃え立たせるべきだと、そう信じるのである。                                                
                  (了)

2019/03/28(木) キッチン078
             ある死 4

 年齢は三十代後半で、臆病質な痩せた蒼白い男だった。大きな陶器商の長男で、もうその主人だったが、未だに独身だという点に、何かの影があるらしかった。
 学生時代に文学が好きだったとかで、時々文学の話を持ち出して、その時ばかりは私は彼を嫌いになった。だが、私が陶器の話を始めると、彼は嬉しそうにいろんな事を聞かしてくれた。一体、自分の職業に関する事柄を他人にあまり話したがらないのは、文学者や哲学者や美術家や音楽家に最も多いようだが、何故だろうか。
平素精神的に余りに苦労しているからだろうか。
 f氏の死を自殺だったかも知れないなどと考える根拠は、実は殆んどない。こじつければあるにはあるが、それは文学的なものに過ぎない様に思われる。
 f氏は当時、家運が傾いて来ていた。
がこの点については私はよく知らない。但し破産とかあるいは閉店とか、そんな状態までには立ち至っていなかった事は、その後も店はなお立派に経営されている事で明らかである。
 f氏には仲睦まじくしている女がいて、それが地元のバー・Jで働いている女、k子だが、地元以外の土地でちょいちょい女遊びをしていた事を私は知っている。それはまあf氏にはk子があるが、お互いに一応独身であったし、大した事ではないかも知れない。
 死の2年前の春頃から、f氏の深酒が、時には自暴自棄かと思われるほどの深酒が始まったとの事である。そして簡単に、私の飲み相手の女の言葉を借りて言えば――
「fさんと交際してたk子さんておかしな人よ。fさんがよく、最後に……終わりにしよう、って言うのが、あんまり度々なので、気になりだしたんですって。最後に、今晩はうんと飲もうとか、最後に、芝居へ行こうとか、最後に……一緒に寝よう、とかそういった調子なんでしょう。そのたんびに、彼女がいやいやいや……て言ってたんだろうと思うわ。それが、その時はそれで済んだけれど、fさんが急に亡くなってみると、あの最後に、と言ってた言葉が気になりだしたんですって。あの時は、これがお別れだというくらいの、ただの嫌味で、また初まったという風に軽く聞き流していたのが、後になってみると、生涯のほんとの最後に……というんじゃなかったかしらって、涙ぐんでるのよ。ああした仲だったんだもの、どっちだったかくらい、初めから分りそうじゃありませんか。今になって泣くなんて、おかしいでしょう。そうじゃないですか?」
               (続)

2019/03/27(水) 海抜
              ある死 3

 人は必要な物によってよりも、むしろ欲望によって生きる。
犯罪の原因を調べてみるに、必要によるもの7%で、他の93%は欲望による。あらゆる方面で満ち足りて必要なものが有り余ってさえいる現代において、先の数字はおかしく思われるかも知れないが、しかし心理的に真実なのである。即ち、100人のうち93人までは欲望に生きており、7人だけが必要に生きているのである。
ある囚人の話によれば、もし終身刑というものが字義通りに確実不動のものであったならば、その刑に処せられた者は到底生きてはいられないとの事である。
 そういうわけだから、私が例えば一個の石に執着したとて、軽蔑されるには当らないのである。その頃の私はかなり夢中になっていた。飲み屋の女をつかまえて、今一番欲しいものは何だい、などと聞いて見たり、こちらの事を反問されると、即座に得意げに、石だと、それがあたかも恋人の名前でも言う様に嬉しがったものだ。
その私の言葉尻をとらえて、f氏は盆石の事を話し出した事があった。もっともそれは父親から引継いだ趣味らしく、自分で集めたものは少なかったらしい。
盆石といっても、主として水石であって、それも加工しない天然自然のものだけを好んでいたらしい。
私はいろいろその話を聞いたが、よく分らなかったし、多くは忘れてしまった。ただ苔の話だけは妙に頭に残っている。
「……苔と石とは、全く一体をなすものです。だから、苔が生きてるのか、石が生きてるのか、分らなくなりますよ。またそういう石でなければ、値打ちがありません。箱にしまいこんでいた石を、一年も二年も経ってから取出して、水を注いでやると、その肌から、苔の美しい緑色が葺いて来ますからね、話を聞いただけでは誰だって不思議に思いますよ。その不思議な、苔の生命というか、石の生命というか、そいつを見ていますと、逆に、人間の生命なんかつまらないものに見えてきますよ。わずか、これっぱかしの石ですがね……。」
 この言葉は、私の頭に残ってるから書くだけのことで、それがf氏の哲学だったわけではない。彼はもっと現代人であって、ただ、盆栽芸術の趣味といった様なものがどこかに身に付いていた。   
                      (続)

2019/03/26(火) ダイレクトワン
          ある死 2 
          
 ある時、彼と一杯飲み屋で出会うと、彼はもうだいぶ酩酊していたが、私の方を見ないで宙に眼を据えて、こんな事を言った。
「真剣な女遊びは、不思議なもので、まるで登山をしているみたいですね。」
その言葉を今思い出したというのは、最近愛読した登山記が二つあったからである。
ウィムパーの「アルプス登攀記」と、ベヒトールトの「ナンガ・パルバット登攀」とだ。両書とも一気に、夜を徹して読み耽った。そして読後に変な気がしたのは、信念にまで高まった情熱の前には、如何に人の命が安価であるかという事、言い代えれば、ある場合には生命などは問題でなくなるほどに、情熱が信念にまで高まるという事である。勿論ここでは大自然の中においてであるが、そのある場合は、我々の日常生活の中まで延長して来ると思われる。
そしてこのある場合というのは、情熱それ自体がそうである様に、必要以外のものなのである。時としては、常識的には至って下らないものなのである。
 必要というのは、喉の渇いてる者にとっての水、腹の空いてる者にとってのパン、性欲に飢えている者にとっての異性の肉体、無一文な者にとっての金銭、そういうものの事である。
ところで、我々にとって、必要なものは単に必要なだけだけであって、それ以外の何物でもない。我々が本当に欲しい物は、別にある。「今何が一番欲しいか。」と尋ねられたら、大抵の場合――全ての場合と言えないほど我々は必要なものに不自由しているのを悲しく思うが――大抵の場合、直接に必要でないもの、しかも多くはつまらないものなのである。
 例えば私の経験から言えば、最大級に最も欲しかったものは、ある時は、不吉な因縁話のからんでいる小式部人形だったし、またある時は、四五尺の大きさの鳥の剥製だったし、ある時は、幽霊が出ると言う青江の妖刀だったし、またある時は、ちょっと奇異な形をした自然石だった。つまらないものばかり欲しがってる奴だな、と言うのを止めて貰いたい事には、私はそんなものさえ買えないほど貧しかったし、差し迫って数千円か数万円かが必要だったのであるが、その困窮の中でも最も欲しいのは先の様なもので、それを見に行き、始終空想していたのである。
ただ幸か不幸か、その欲望が情熱にまで昂じなかっただけのことだ。とは言え、それは単なる人形や剥製や刀や石でなく、無限の拡がりを持ち得るある物だったのだ。
                  (続)

2019/03/25(月) 駅前オブジェ
                 ある死 1      
 
 昨年、知り合いのf氏が突然死んだ。夜遅く、泥酔して帰って来て風呂に入り、そしてそのまま寝たのであるが、翌日、昼近くまで起きて来ないので、家人が行ってみると、もう冷たくなっていたそうだ。その死因に、怪しい点があった。彼は軽い心臓弁膜症に罹っていた。また平素から不眠に悩んでいて、医者の処方の睡眠薬を用いていた。それでも尚、大酒の癖が頻繁になっていた。悪い条件ばかりだったが、さて、その直接の死因が、心臓の故障による頓死だか、薬剤の多量服用による自殺だか、よく分らなかったという。
もっともこの後者の方は、万一そうであっても「酔った余の過失」だとなっているが、それを意識的な自殺かも知れないと考えたのは、数名の知人だけとの事である。医者の意見は、職業上の特別な秘密に属することだろうし、我々が尋ねても本当の事は教えないだろう。 
 私が思うに、病死か自殺か分らない様な急死が、世の中には随分とある。精神的に言えば、自殺も一種の病死であろうけれど、肉体的に直接に言えば、両者は明らかに別のものである。それが、どちらとも分らない場合が随分とある。側近の者にも分らないのである。f氏の場合両親と同居していた。
衰弱し切った重病人については、医学的にも分らない場合がある。ただ、それが明らかなのは、文学の中に於てだけである。自殺か病死か分らないような死の例を、文学の中では、私は今すぐにはちょっと思い出せない。恐らく文学に於ては、そこまではっきりさせなければならないのであろう。
心理主義の文学などという種類があるくらいだから、それはそうに違いあるまい。
 ところで、f氏の死をあるいは自殺かも知れないなどと推察するほどに、私は彼と親交が深かったわけではない。面会したのが数回で、それも酒の席でだった。交友という間柄でなく、手紙や電話・メールのやりとりさえ一回もなかった。偶然の機会に知り合い、それから偶然の機会に酒を飲みあうというに過ぎなかった。
                 (続)

2019/03/24(日) ポスター
政党

2019/03/23(土) 変電設備
         「反戦」とは

 ポール・マッカートニー&ウィングスのデビュー曲に「アイルランドに平和を」と言う曲がある。リズミカルで、メロディーも良い曲で、それなりに当時流行った。
ただ、原語を直訳すると「アイルランドをアイルランド人に返せ」との意味なのだが、意図的に日本語訳では違ったタイトルにされている。この曲は、当時高揚していたアイルランド紛争を前提にした明確な主張をアピールしていた。これをまったく無視した無意味なタイトルに付け替えた事は、日本のレコード会社がある種犯罪的であるとさえ思う。ポール・マッカートニーがそれを承知したものかどうかは分らないが。
これを、「意訳」と呼ぶ種類のものかどうか知らないが「大衆におもねる」タイトルである事だけは疑えない。
 一般に戦争が起る場合、そこには必ず不可避的な理由を持っている。即ち、必然的に戦わざるを得ない場合に戦いは起るのである。いくら「好戦」的な国家の指導者でも、避ける事が出来るなら、戦争は避けたいに決まっている。
みすみす、避ける方法を取らないで戦争に突き進んで行く事を選択するのは余程愚かな指導者か、狂人だけだろう(この国に存在した「東条某」の様な)。
 歴史に於いては、それぞれの局面で、具体的な顔・信条を持った人間を指導者に祭り上げるから、その戦争での責任を全て、その具体的な顔・信条を持った人物に帰する事が出来る。これはいつの時代でも、勝者側のする歴史の偽造である。
 さて、もしもそこで戦争反対をするならば、個々の戦争の不可避性、つまり必然性を認識し、それに真っ向から対する事の出来得る必然性を示すものでないならば、その様な「反戦」は無意味である。この意味で「反戦・平和」などと言うスローガンは信じられない。
こんなスローガンは、状況が変わり、時の指導者が変われば、いとも簡単に「滅私奉公」と言うスローガンに変わり得るものだ。言わば、戦時中の報国思想を裏返しただけのものでしかない。
 今まで「戦争の必然性」と言って来た。これを厳密に言えば、単に「国家」にとっての必然性に過ぎない。この様な必然性は、日々、汗水を垂らして働き、生活の糧を得て生きている大衆人民には何の関係もない。
 この大衆人民に何の関係のないものを、確かにその様に認識すると言う事が、我々にとっての「反戦」の根拠となる。
言い換えれば、「国家」がその意図の内部に人民を包摂しようとするなら、人民は、「国家」に」対して戦わなければならない。
「戦争」に対峙すべきなのは、「平和」ではなく、直接的には「反国家」である。
これを明確にして「国家」と戦おうとしない「反戦・平和」のスローガンは「大衆におもねる」ものでしかない。
                (了)

2019/03/22(金) 里芋販売
             姥捨山の真理
 
 昔信州に姥捨山と言う所があったと言われる。昔は老人になるとそこへ捨てられたという伝説が残っている。太平洋戦争中、六十才以上の老人には米その他の配給量が減らされた。
生活の困難な時代では、生産に役立つことの少ない者は生産に役立つ者に席を譲って、国家の共栄をはかる必要があったのだろう。尤も、あのキチガイじみた戦争の様に、生産に役立った者を皆殺しにして、老人の生命を永らえるような逆効果を来たしたのは、甚だ愚かな悲喜劇であったが。
 さて、人生わずか五十年と言ったのは、老人医学の発達しない時代の事で、今では男の平均年齡が愈々八十才を越え、女が男より上回ると言うのだから、人生わずか八十年になって来たわけである。そこで、六十才になったら老人の仲間に入り、老人の日に奉られる資格を持つわけになるが、アメリカのように広大な領土と無限の富を持っている国や、スウェーデンの様に土地が日本の十倍もあって人口が日本の十分の一しか無いという福祉国家では、いくらでも老人優遇の社会保障が成立するだろうが、わが国の様に、あり余るのは人口だけ、後はナイナイづくしの国柄で老人がのさばる事は、即ち生産年齡層に対する社会保障を阻止する事になる。
 だから、老人の日もいい加減にして、生命は自然の成り行きに委せる方が、可愛いい子や孫のためにもなろうと言うものだ。 老人病学の対象と言えば、高血圧にガンが主だろう。この他、糖尿に腎臟に、インポテンツとか、色々あるだろうが、生産増強の分には余り関係は無さそうだ。恐らく、医者と薬屋の繁昌を助けるのがオチになる。
それに、多くの老人は、金のあるに任せ、無い者は質をおいて、一年でも長生きしようと、医者を繁昌させ、インポテンツの悩みを解決しようとして、高いホルモン剤に飛びつき、葉緑素だの綜合ビタミンだのと、手当り次第に試みるのである。 金に都合のつく者はいいが、田舍の百姓の老人などは金の都合が悪いものだから、自然に委せて天命を全うする。そこに社会的な不公平現象が起きて面白くない。結局、老人病学は富者の独占になる。
 多数の老人中、芸術、学問、会社経営、生産、政治になお役立つ者が無いわけではない。いや、人により、仕事によっては若い者の及ばぬ所を老人にあって初めて可能にするものがある。
若い者では決して出来ないものである。しかし、そういった人たちが、老人中の総数中、一割も居るだろうか。これは問題だ。従って大多数の老人は既に現世の役割を終え、早く天命を全うして然るべきものだろうと思う。否、周囲に嫌がられる年齡になり、憎まれ爺婆世にはばかるのも辛いに違いない。 
こうは言うものの、自分も間もなく老人階級の仲間入りをするものだから、老人謀殺法を制定しろ、などと提案する気はない。老人をして、安んじて天寿を全うさせるような社会を建設したい、と思うのだ。              
           (了) 

2019/03/21(木) 県知事・議会選挙
              宣言

 今まで生き延びて来て、もう少し長生きしたいと欲する様になり、一方では死に心を惹かれる自分がいても何も不思議ではないだろう。
死を希求する者が、生き延びるための処世訓を他者に滔々と発露してみようとも、反則でも奇異でも何でもない、私等は先刻承知しているのだ。何処にも存在しないと言う事が解っている。
 権謀術数の得意な輩にとっては虚無的な考えほど組し易く思えるものはないと言う事だろう。虚無的な事象を志向する者には己以外護るものはない、否、己さえ護ろうとする対象ではない、護るべき何物も保有していない者に強靭な敵対者が在ろうか、何処に居るのだ!
 しかし、私は騙されない。虚無的なものへ向かう道程には数多くの追剥ぎが森閑とした木陰に息を潜め、こちらを虎視眈々と狙っているのだ、油断はならぬ。
 見えざる敵、不可視な敵に日々怖れおののきながらも深夜、孤独と戦いながら凶器の刃先を研ぎすましている。
不可視な敵の化物が、卑猥で醜い正体を現した時、恐怖の絶叫を喉から絞り出しながらも奇っ怪な怪物を刺すだろう。己の領域には他者を一歩たりとも踏み込ませない。のっぴきならない緊張関係である。防御壁を周囲にぐるりと巡らせて、中からライフルの照準を合わせる。来るなら来い、私は身構える。手榴弾を掌に握る。
 やせ衰えたこの肉体、か細い腕、この力なき者の、力有する者への叛逆は一つの匕首となって、一発の銃弾となって突出して行く。
 ここで宣言する。
 行く手を阻むものをあらん限りの憎悪と殺意を込めて、情け容赦なく駆逐する事を。
私が消滅するか、諸君が消滅するまで凶弾を射ち続けるだろう。
紛れもなくこれは私の生を賭した戦いの第一歩なのだ。
                      (了)

2019/03/20(水) 特設カフェ
            化物の話 
 
 妖怪とか魔物・化物、生霊とか死霊とか種々いろいろな怪物に就ては、度々話をされたり書かれたりしているから改めて語るまでも無かろうから今度は少し変った類の話をする。 一体世に言われる魔物・化物とは不思議なもので世間にあまり類と真似の無い様だが、よく考えてみるとこの世の中にありとあらゆるものは皆化物になる、ただ私達の眼が慣れっこになったので、化物に見えなくなってしまったのに過ぎない。
それが証拠には火の燃え盛っている中を御覧なさい、これが第一化物である、黒くなっているうちは弄っても熱くないが火になって赤くなれば触る事さえ出来ない、科学者に言わせると分子の運動とか何だとか理窟を付けるが、よく考えれば不思議なもので確かに化物である、庭に咲いている綺麗な花を嗅いでみると良い芳香がする、この花がまた化物である、言うに言われない花特有の香りはどうして出来たものか、これも深く詮索をすれば結局判らない事になってしまう。次に鐘を叩くとガーンと音がする、その音は影も形もなく駈けるように遠くに響いて行く、人間の拵えた説明では到底その理由が満足に判らない、これも確かに化物の仕業である。
 各種化物の例を上げて来たが、こう言う我々人間こそ最も大きな化物である。悪い事も考えれば善い事も考える、歩きたいと思えば足が動くし、手を挙げようとすれば手が挙がる、生理学者の説明はさることながら詮策するが、一般人には一向に判らない大化物である。
この自分が大化物である事を悟らずに種々化物の事を想像してやれ宙を飛んだり舞ったりするのが化物であるの、化物に重さはないなどと勝手に考える、しかしこれは疑えば続々と疑いが出て来る、成程地球の引力で物が下にじっとしているのだが、もし地球の運転が逆になったら反って宙を飛ぶのが普通で下にじっとしているのが化物になるかも知れない。また目方通りここで10kgあるものを赤道直下で量ったらきっと重さが減る、更に太陽や惑星の力を受けない世界に行って重さを量るとしたら、重さはまるで無くなってしまうかも知れない。
してみると重さがなければ化物だとはちょっと言い難くなる。 まあ化物に重さがあってもなくっても、そんな事は構わないとして、次に大化物である我々人間の事を少し考えたい。
 人間が五感によっている間はまだ悪い化物である。世の中の人は科学に中毒していてあまりに人間の五感を買い被り過ぎている。暗い所では何も見えない、鼠や猫に劣る眼を持って実際正確に事物が見えようか?盗人の足痕を犬の様に探れない鼻で実際匂いが嗅げようか?舌にしてもその例に洩れない、触感も至って不完全なもので、人間はこの五感では到底正確に事物を知る事が出来るものではないのである。                          
ただ、ここに不思議なのは心である、五感の力を借りないでこの心で事物を知る能力が人間には備わっている。即ち種々ある手段によって三摩地の境涯に入れば、自ら五感の力を借りずに事物を正しく知ることが出来る。
 古来聖人君子の説かれた教えは、皆この五感の迷いを捨てよと言う事に他ならないのである。 世の中には魔物・化物が沢山いて、学問が進んで化物の数が少なくなったと言うが、それはいい加減な事で、かえって殖えているかも知れない。
我が国にも有形無形の化物が彼方にも此方にもゴロゴロ転がっていて、世の中はまるで百鬼夜行の姿である。 私は百物語で幽霊があるとか、狐や狸は化けるものであるとか、世の中に種々ある化物の詮索をするのを止めて、まず我々人間が一番大きな化物で神変不思議な能力を持っていると喝破し、多くの人々にどうか悪い化物にならないで五感の迷いを捨て、修養の道に工夫を凝らし、三摩地の境に入って良い化物にお成りなさいと勧め、これで一向に怖く無い化物談を切り上げる事にしよう。
               (了)

2019/03/19(火) てんや
            日常の闇

 日常生活というものは、案外ねぼけ眼で何も考えずにすいすいと至極簡単にやり過ごせても不思議ではないのかも知れない。何もしなくても自然に夜になるし、まんじりとして眠れなくても朝はやって来る。
 家の中に閉じ篭り、自分の殻を出ようとせず、自ら卵の様になり単性生殖の植物を夢見ている。その結果寝ているはずの夜にだけ目が覚める。
 田舎に住んだ事のない私は、足の下も見えない様な闇夜を歩くと言うのをした経験がない。都会の夜はうすぼんやりした群青の濃い色でしかない。だから、電燈の灯った明るい部屋の中にしか私の闇夜はない。そんな夜の想念の中で日常の想いを幻燈に移して見る。
切り取られた私の日常の中で起きる現象は、セピア色の写真になって眼前に拡がって行く。
 その中で、事実はより露悪的になり悲哀はより増幅されている。
闇の中に浮かんでは消えて行く自らの幻影をただボーッとした頭で眺めている。時々想い出しながらその写真を取り出し、その上に丹念に色を塗って行く。毎日の様にそんな作業を繰り返している。
それは自分に対する執着心がなせる業で、おどろおどろしく、見苦しくさえある。
 闇夜に埋まりながらも、この執着心だけが私と闇夜を拮抗させているのだ。
この執着心は一つの門であり、私はじっと耳を澄ましてこの門の内の音を聞いている。
 私は幻燈にもっと美しいものを写さねばならない。「鶴の恩返し」と言う物語の中の、閉め切った土間で娘が鶴の姿に戻り、自身の羽を抜いて機を織る、その凄惨な場面をどこまでも美しく彩色しなければならない。
闇の中で耳を澄まし、飛翔する瞬間の羽音を聞かなくてはならない様に。
                      (了)

2019/03/18(月) 北口
タクシー乗り場

2019/03/17(日) えん陣
           リインカーネーション 2
 
夕方から深夜にかけて、自転車はじっとして耳を澄まし、目を閉じて長い長い休息に入る。いつ終わるかも知れない、長い休息に。
 仲間の自転車は皆働いていて、色や形に違う種類があってもただの自転車であると思われるかも知れないが、中には芸術家気質の自転車や、医者のレッテルを貼られている自転車や、音楽家、議長、政治に強い自転車もいて、私と言う自転車はこれから何を目指して行けばいいのか私自身を見つけるために、周囲に気づかれぬ様に、ブレーキやチェーンやサドル、タイヤ等を動かし、軋みを調べたり、唸ってみたりして学習を始めています。
 一通り自分の意志で何でも出きる様になって来ると、物置の暗く狭い中では満足出来なくなって、ある日、ついに外へ飛び出しました。
私は夜であるにもかかわらず、人目を避け、まるで影の様な身のこなし方で動き、森の入口で一休み。
真っ赤に熟し切った柿が一つだけ枝にぶら下がっています。唐辛子の故郷の様に、燃える様な赤に身を焦がし、柿の実はいったい何を思っているのだろうか。
 私はそれから、いつの間にかこの柿の実を、太陽よりも大きいと感じる様になり、意を決してずっと柿の番をしています。いつかは絶対に落ちる実、いまは熟した姿だけれど、もうしばらくすると腐り始め、渋く目を焦がすほどの悪臭の塊になるであろう。
 いつ落ちるのだろう、熟した姿でか?腐った醜い姿でか?
 私は何か不届きな楽しみを少し感じ始めています。しかし柿の実は、ますます太陽の芯の様に真っ赤に燃え続け、衰えを見せないでいる。
自転車である私は、風雨の餌食となって、フレームの端から少しづつ腐食を始め、いつしか柿の実を見上げる事もままならずに、その場に倒れたままになってしまった。
 せめて最期に、大きな太陽の様な柿の実が、倒れていて動けない私の体の上に、ベチャリと落ちてくれたらなぁーと、ただそれだけをボンヤリと念じています。
                     (了)

2019/03/16(土) チガサキッチンン
           リインカーネーション 1

 坂の登り口の所で錆びた自転車が倒れています。
行き交う人もいない、月明かりのきれいな深夜、犬コロがその自転車を目覚めさせようと、抱きかかえるようにして、ペロペロと舌で気持ちを送り込んで舐めています。
夜空には紫色のカラスが旋回していて、発声練習を繰り返しています。
 件の犬コロは体毛を振り乱し、一心不乱に息を弾ませダ液のベールに包もうとしています。しまいには勢い余って、チェーン・ソーのような鋭い歯でもってガブリとフレームを噛んでしまった。
すると風雨に長い間さらされていたせいか、フレームは簡単に崩れ、犬コロの歯の隙間にその破片が挟まり
「しまった!」
と一瞬声をあげてしまった。
 この坂の登り口で自転車はこの時を待っていたのだった。そして、早くこの世の記憶から遠く離れ、何か別のすくすくした物に生まれ変わりたいと願っていた。
 自転車は今まで一度だって自分の意志で行動した事がない。誕生する過程でさえ、たくさんの他人の汚れた手であちこちネジを巻かれ、油の中をくぐり抜け、最後に番号を振られて、あるサイクル・ショップの隅っこに送られた。
40〜50日間主人の横目の位置に置かれ、ある日、子供の嗜好とは関係なく
「こっちの方が、今は少し大きいが、後々まで長く乗れる。」
と言う親の考えのもと、店の中央に引っ張り出された。
主人の笑顔と、子供の奥歯を強く噛みしめた表情が対照的だった。
 大きな補助輪をつけ、まるで三つ目小僧の様な愚体をしながら、それからの2〜3ヶ月は慣れない子供の操縦に付き合い、子供なりには大切にしてくれた。時々砂や泥をかけられもしたが・・・・・。
 しかしそれからしばらくした、暑さの厳しい夏の午後、子供を乗せたまま、笑いの中、タンク・ローリーにぶつかりそうになり、たまたまそれを目撃していた隣家のお母さんの大げさなおしゃべりにより、自転車は物置の中へと旅立った。
それから5年もの間、時々叩かれつつ開かれる扉を背にして、自転車は淋しい日々を過ごした。
                    (続)

2019/03/15(金) 帰宅困難者用案内
            左翼思想を振り返る

 過去の「左翼」思想は、暴力を伴った国家権力の性質に対して、必然的に、いわば可視の敵を対極にして形成されなければならなかった。そういう「左翼」思想を近代的に捉えようとするならば、実在が「影」になり、逆に影が「実在」となってしまうのである。これでは折角の「革命」的な情熱や強固なる意志を持ってしても、度重なる運動の不発から「現実の中に生きよう」との意欲さえも徐々に喪失し、権威の中に安住の地を求め離脱して現実逃避する事になって行く。いずれにしても、「自由への闘い」を放棄した「商品的」人間に成り下がってしまう事になる。
 「進歩的」知識人と呼ばれる顔ぶれに、深刻ぶった貌と天下泰平的な貌とが平和的共存している情況は過去の「左翼」思想を古典的「左翼」思想としか捉え切れていなかった所に主要な原因があったのではないか。
 「現代的に生きよう」とする声がある。それは生命を諸々の思想の中心に据えようとするというものを、マスコミに歪められ、過去の「左翼」を古典として葬ろうとする行為である。
 「文学とは自己の感動を表現する事から初まるもので、根本は事物の模写や事件の記録や他者の認識や現実の批判などにはないし、世界の総体として捉える事にもない。」
と断言された過去もある事から、リアリズムを超越出来ないでいる「左翼」的文学論は、
「生命を阻むものと対決せざるを得ない自己表出であり、政治や理論の批判ばかり要求する。」
 実を取ることばかり考え、植物の様に根が必要である事を忘れている、と批判され、それと共に重要な提言もされつつある現代の「左翼」であると言える。
                           (了)

2019/03/14(木) 中海岸
旧ごみ捨て場

2019/03/13(水) 有料駐車場
             50年代との決別

 ターン・テーブルの上で踊る夢を見る。という事はつまりこうだ。
もう既に70年近く前にもなる、1950年代の時だ。懐かしき、想い出のつまった日々、そういう事だ、もう君はすっかり記憶の彼方に消し去っただろう。君はもう既に現代人となって、何でも笑って誤魔化す人になってしまっている。私も笑ってしまおう、何事がそこに起ころうとも。
 現代には{知識}などなく、{知}だけがあるだけなのだ。{知→インテリジェンス=情報}と言う堂々巡りの情報社会の中で、本屋はどんどん本を作り売りさばき、インターネット社会の中では新しい情報がどんどん更新されて行く。そうしてどんどん売られ、更新されて行く情報は出がらしのお茶っぱの様になって行ってしまい、今や「一つの異常な物・者」にしか興味を持たない、そこに現れた異常なものに、一躍スポット・ライトをあて、全てが一種のアイドル路線をひた走ると言う状況になってしまっているのだ。これらの状況を批判し、嘆かわしいと言う文明批評家等は、既に片棒を担いでしまっているのであり、食いぶちとなって、アイドル路線の足元にすがりついて離れなくなっている。
 50年代にしか生きられなくなっている者にとっては同じ轍を踏む行為で、倦怠を感じざるを得ない。
 なにしろ、やっている連中のベクトルと言ったらてんでバラバラで、それが個性だと履き違えていて、一枚岩的にやっているゾと胸を張る者がいたとしたら、ビックリ・マークの二重・三重ものだ。もはや現代では、関数値に過ぎない{自我}などと言うものが全ての始まりだと語る者は、本格的にジャーナリスティックなお目出たい人だと思ってしまう。
 共同幻想の中に酔っていて、ものの本質を知ろうともしないお調子者たちと同時代に過ごすには、あまりにカッタルクて、退屈でもあり、{共同幻想}を自己表現しつつ突き破るためには気の遠くなるほどの作業が待ち受けているものと考えられる。
 昨今の{大・小総ジャーナリスト化}を{新・新古典主義的50年代退行者}はただ傍らに寝そべって、アクビをしつつ見守っているのみである。
                        (了)

2019/03/12(火) 空気入れ
           深夜の夢

 深夜は家が軋むらしい。
眠りに入るきっかけを失いぼんやりと起きたままでいる。すると雨なんかが降って来て、雨粒の音ひとつひとつを数えていると雨脚はとめどなく続いて、いつか雨音は夜の闇に吸い込まれて行って音を拾い出す事も出来なくなってしまう。
 誰かが遠くの方で寝息を立てている気配を感じる。するとそんな深夜に家が軋む。真夜中の沈黙を唐突に破って、鉄筋コンクリートの箱の様な家の中の、木の部分が軋む。
いつしか毎晩その音を待ち受けるようになり、今か、今かと息を殺してじっと待っている。その緊張感が、いつの間にか弛緩して意識が彼方に彷徨う瞬間に、軋むのだ。
その時に漸く、待っていた事に気づく。コンクリートで固められた箱の中で木の魂がせめぎ合っている。それを悲鳴と捉えるのは、私の心が共鳴しているからなのか、それとも悲鳴をあげたい私がいるのだろう。家の軋みが空気を震わせ、その振動が私の鼓動に繋がって来ると、眠れない。このままでは眠れない、このままでは一日を終える事は出来はしないと思いながら、不眠の夜が続いて行くのだ。
 不眠の真夜中に、私は椅子に座って雑然と散らかった部屋の中を見回して、吸えないタバコを吹かしてみたり、出鱈目な鼻歌を唄ってみたりする。詭弁を呈するための証明もその中で考えついた。
 一日を充分に怠けるために早起きをする極意だ。私はとても働き者なのだ。夜も寝ないで何かを考えているのだからと自分を正当化し、一人で笑ってしまう。
 そして又、夜の闇に投げ込まれて家が軋んで、闇の中で不安を感じるのだ。浮いているのか沈んでいるのか、夢の中で夢を見ているという不確実感に覆われ、現実と夢との境界が分からなくなり、それもこれも、現実の酷薄さを隠蔽しようとするためなのだろうか。
                   (了)

2019/03/11(月) 共恵自転車駐車場
             ノン・スクーリング

 枯れ木に花を咲かせましょう。赤や黄色の衣服をまとい、枯れ木に花を咲かせましょう。
 ここは浅草千束町、ちっちゃな酒屋が潰れたよ。一人の少女が両手に兄弟引き連れて、地震の街を行ったり来たり、あると思って省線の駅へ、小石が一つガラス窓を突き破り、割った小僧は得意そうに舌をペロリとやりました。
「君らは行く当てあるんかい?」
そう聞かれて、少女はしゃがんで考えた。その内地震も収まって来て、漸く心細さも解けました。
フテ寝の輪タク捕まえて、思い切り握り潰して見たくもなりました。
少女のいかり、ないと思った時代のいかり、泣き伏すわけには行きません。
 ここは浅草千束町、赤や黄色の衣服をまとい、枯れ木に花を咲かせましょう。
「事態は以外な展開を見せはじめたの。」
「どんな風に?」
あなた任せの風の様に、。坂を坂とも感じずに・・・階段を階段とも感じずにかい。
 空が君の腹に長ネギを一本差し込んだ時ってそれまで動いてた雲が急に見えなくなる。
シルバー・シャイニング
 芝生を一本一本抜く様に、指にリフレクションさせて後は自然に・・・夢。
「夜明けの晩に鶴と亀が滑った、後ろの正面だあれ。」
何てわけの解らない歌詞の言葉を言いながら、最後に「さようなら」の代わりに「お大事に」だって。
 大切なのはビート
王冠の回りを走り、疲れたら水滴のクッションでトランポリンをする。その後サイダアを取りに裏の小屋へこっそりと・・・。両手に八本持って来る。大ジョッキに全部注いで見たい。
鯨・もうすぐ食えなくなるかも。
鯨・もう寝よう、迷惑かけてもいいから。
鯨・ストックはあと何年分。
鯨・ボクらの愛の結晶。
 ◇ボクを笑わせて見ろよ。
 ◇何よ、いつもそんな事言って困らせて。
 ◇ボクの白い歯を君にあげたいんだ。
 ◇くれやしないじゃない、いつだて舌でくるんでいるくせに。
男は顔じゃないよ、心だよでご勘弁を。
枯れ木に花を咲かせてね、かわいい女
枯れ木に花を咲かせてね、頭のいい人ほど虚しそう、だから
枯れ木に花を咲かせましょう、赤や黄色の衣服をまとい
枯れ木に花を咲かせましょう。
              (了)

2019/03/10(日) ちくよう
            思想と生活について

 その昔、武将楠木正成は、湊川の合戦で足利尊氏に敗れ戦死したのだが、その時、人間として七度生まれ変わって国賊を討たんと遺言をしたそうだが、平成も終わりを迎えようとする今日になっても未だ生まれ変わって来てはいない。
 過去、大東亜戦争をおっぱじめた時、敗戦も目前になって来て、国家存亡の非常時となり、もうこれまでかと言うに時も正成は現れず、神風にでもなって吹いてはくれまいかと本気で祈った連中もいたとか。そんな奴等は正成戦死から以後現代まで、正成を利用して得をして、狡猾に生きてのさばっている。
 そんな時代に、自分の生の拡充と、社会変革への意欲を考える余裕が一体あったのだろか。
「思想を生活に転換し取り込んでこそ、その人は思想の所有者となる。」
と言う純粋でまた非妥協的と思える考え方があり、対するに、文化の使途であるとすました顔で戦争の片棒を担いでいた奴等の、醜悪で卑しい、官制や軍閥・学閥に乗っかる野ダイコ連中にはない哲学、自分自身で鍛えあげた、生きた哲学・思想が存在し得る。
 この世には、いつの時代だってその時の体制が持っている組織や感念に心酔して、それらを認め、心にもない提灯記事を書いたり、オベッカを使うマスコミ連中等が、いわゆる健全な人として体制の中で生活し生存が認められているものだ。
 もしも人生に目的と言うものがあるとすれば、それはただ享楽するものであるが、これを真に受けて酒を喰らい、無軌道に生活する者あれば、それは思想の自由的側面の悪い面だけを見習って来た結果であろう。
 そして、一日生きれば、一日だけまた、この世に生きる事の浅ましさとアホらしさを次第に、強く深く、感じて行くばかりなのである。
                      (了)

2019/03/09(土) オッジイ
         思想と怠け者 

 一つの思想を身につけようと思った事がある。だが、しかし、思想とは一体なんぞやと思っている間に次第に生活に追われてしまい、それどころではなくなってしまった。
それで、新手として、思想の振りをして酔っ払って千鳥足で歩いて見たり、血を売ったり、ぶらぶらそこら中を歩いたりして見た。ぶらぶらするついでに、思想の振りをして山の中や道端に寝転んでも見た。
 そんな事を繰り返しているうちに、思想なんていいうものは贅沢な物か、なんでもない遊びの一つの様に思えて来て、思想なんていう物とは縁を切る事にした。
そして身についたのが、その日その日を楽に暮らす事だったのだ。
 何かを思う。
 思ったままにしておくと、何でも自由自在である。思いは、ある時は海になりある時は山になったり、またある時は小川になったり小さな町になったりし、その町で出会った人にもなる。
しかし、思った事を文章にしようとすると、途端につまらなくなってしまう。
 楽チンで楽しくと心がけてはいても、心がけは長く続く物でもなく、つい破ってしまう。小さな町で出会った人とつい心がぶつかってしまったりするのだ。
そんな時は消え入りたくなる。忍術修行でもして姿を消してしまうにはどうしたらいいか知りたい。
ドロン・ドロン、目をつぶっている間に己のブザマで醜い姿がパッと消えてしまうのである。
                      (了)

2019/03/08(金) 駅前商店会

2019/03/07(木) えぼし号案内
   僕たちの期待 2

 君は唇を甘く流して
「でもあなたは、内燃機関が狭くたって、ちゃんとオリジナルなパーソナリティのある絵を描いていたじゃない。あたしちゃんと知ってるんだから。未来の事は解らないけど。また蛇の絵描いてよ。」
僕はこんな時、口笛でエリック・サティの曲が吹けたらなぁと思った。ピュアに。
 翼の毛を抜き過ぎてしまって、妙に不安そうな表情になっている天使は、いつの間にか君の懐の中に収まって温められていたけれど、その様子は、悪い風邪を引きずった猫一匹も寄せ付けないって感じで、とてもダークネス。
しんみりと天使が言った。
「あなたはとても楽天的な人ですよ。自信たっぷりに、内燃機関がどーのこーのと言っていたけど、それでいいんじゃないですか?自分自身を中心に据えて回っている世界から発している声はやがては消えて行ってしまうけど、決して途絶える事はないはず。ちゃんとして、ちゃんと。」
言い終わると天使は、翼を拡げ、青い光を放ってくるりと身を縮めて、消えちゃった。
 君は急に髪をまとめ、てっぺんで団子を作り、枕はいらぬと言って笑った。えくぼの中でキュッと音がして、キーを叩く様なリズムが楽しそう。弾き出された一つの音、一つの言葉。皆さん、おやすみ、ノー・リプライ。
僕は今まで、タッチ・タッチと接触を求め、瞳を震わせてばかりいた。クッキン・クッキン・クッキンと辻褄を合わせ過ぎ、少々辛かったかも。
ごっちゃに漂う食卓に一服の花。ため息の笛だけが存在してる今。
「この鍋の中は空っぽ?」
「うん、盗まれたの。」 
君がやんわりと呟く。偶然の仕業。全てはヴィジョンの中。
「あの消えていった子供は僕たちのものだったのかね?」
「いや、あたし一人のものよ。」
「僕はやむを得ず、一人っていう感じか。」
「ね、建長汁作って!ね」
「作らない!あの子供は黙ってこの世のどこかに住んで生きてるし、黙々とこの世に馴染んでる。」
 菩提樹の中から力感に満ち溢れて来るかの様な、子供の叫びが今、はっきりと聞こえる。「決して一人きりにならない・・・一人っきりに見えても・・・狭い台所の中で、君はタマネギを切り刻み始めた。僕と二人、カレーを作る準備が始まった。
片手鍋で三人分。赤と黒が混じり合って火の上で踊る。パナマ運河を通る大型船。
 知っていても言わない。誰かが言っていたけど、聞こえない。でも聞こえない振りしたけど、あたし、知ってる。
                      (了)
                      

2019/03/06(水) 蒸気屋
           僕たちの期待 1

 流れて行ってしまう。
子供は流れて行く。裸のままで、沈黙のまま。僕も一緒だよね、と心の中で想いながら。
早くここから出ましょう。力に満ち溢れ、いろいろなヴィジョンが僕を養ってくれてる。
 身体がこすれ合う瞬間に、かすかな声が出たり消えかかったり。
僕の耳には確かに届いた声。だから僕は安心しているよ、だってどんな状況になったって、手探りで求め、見つけるもの、絶対に。
 12月24日の雪の降る晩に、小さなフランス人形を盗んだよ。
あの日は寒くて寒くて、鼻水は垂れるわ、おまけに忙しそうに風が吹く中、くしゃみがバラの様にハナ開き立て続けにハクション、アクション、アックション!
(そんなにここで印を残そうとしているの?)
(別にそうじゃない、とりあえずネジを巻く事は止したよ。)

  自分がどんな人間であろうと君を愛しているという確信一つだけ。
この確信は僕たちの魂です。二人で弱さを大切にして生きて行こう。テレながら言っちゃう、僕は君のために・・・。
 不意に外が暮れる、いつの間にか、他人の横顔さえ見えないのに、発音の間違いには気づく、パンとチーズの山の中、一文無しの男と女、そよ風に吹かれながら、次第に夕闇の中へと、くれーる、くれーる。
 クリスマスに僕は君に櫛をプレゼントした。
この櫛には天使の毛が生えていて、まるで翼の様に軽い。ケーキの陰で櫛の翼を握ったまま君は
「そんな事はなかなか無理だと思うけど、明日を約束されない生活をして行こうよ。一番大切な事は、誠実な心をどうにか保つって言う事。誠実な、ね。」
 君の笑顔を見るのは僕にとっていい事だ。もちろん、自分の笑顔も、とくと手鏡で見る。
いつまでもこのまま、髪をとかしていて、すいて、すいて、もっとすいて。
幸福な時間を味わっていたい。長く長く続く列車のレールの様に、どこまでも。
 君は僕に櫛を握らせて囁いた。
「触って見て、匂いを嗅いで見て、熱いでしょう、とっても熱いでしょう、だって昔の蒸気の汽車が今、走って行ったばかりだもの。」
 僕はベッドの上で仰向けになったまま、櫛の翼を電燈にかざして見た。そこから漏れて来る光はまるで、こもれびの様に暖かい。
翼の毛を一本一本抜きながら僕は答えた。
「僕には内燃機関がないんだ。いや、ないって言うより狭いのかな。だからこうして寝てばかり、とてもじゃないけど、気の利いた事は言えない。」
                   (続)

2019/03/05(火) 夕顔
              無と空


 東洋思想というもの、いわゆる仏教は「生者必滅・諸業無常」というものを通して、人間の存在の「無常」が説かれている。奈良時代に存在した僧得一大師は
「現実を無視・否定する真理など存在ない。たとえどんなに現実が醜悪・罪悪的であっても、そこにこそ真理は存在している(真空俗有)」とする最澄に対し「真理は厳然と存在するが、現実の存在は全て架空のものだ、夢・幻だ(真空俗空)」と対峙した。しかし一般的に後の仏教思想においては、この世に対にする厭世・絶望感を高揚させて「浄土教」を生み出し、さらに「阿弥陀仏国幻想(あの世)」というものを作りだしたのである。
 原初的に人は、現状破壊のエネルギーの発露として「土一揆」「山城国一揆」「一向一揆」などの行動を幾多も起し、屈折した形で民衆のエネルギーを発散したのかも知れない。
一方、個々においての悟り(信心)という自覚に基礎をおくと、そういった者たちとの断絶が生まれ、その為大体において日常的に現状維持傾向になり、創造的エネルギーを生み出す事はない。
 一神教の神を持つ事のなかった日本社会では、ヨーロッパの様に唯一絶対神による導きとそれへの反発という、絶対神に対してのアンチテーゼとして意志を持って直視する傾向が薄かったのは確かな事だろう。
 「無」や「空」という言葉は、仏教思想の中心的概念の一つである。「諸業無常」の「無常」の本来の意味は単に情緒的で、常が無い・矛盾的・不確定と解釈する事が、源の意味により近いものと考えられるのではないかと思える。『徒然草』の吉田兼好は「感傷的無常感=あきらめ」から晩年には「無常性こそかえって一切の根底である。」と言う(自覚的無常感)へと生き方を捉え返したと言われる。
 「無」とは「有の否定として、有に対する相対的概念ではなく、「もうこれ以上細分化し続けると無になる」という事であって、何も無い、と言う事ではなく、西洋哲学から来る「存在の欠如」とは意味しない。
 「空」という言葉は、「存在を否定する意味であるが、存在と非在のどちらでもありうる事であってどちらでも無い。」いわば生成と消滅の同時存在の境にあって、それが世界の実相であり空もまた、何も無い、と言う事ではないが、全然、空無の意味とは異なるものでる。
                     (了)

 

2019/03/04(月) 和田や
           ある踊り子

 
 ある土地に一人の踊り子がいました。大変踊る事が上手でした。ある日、父に向って
「お父さん、私はこれから月世界を巡って来たいと思います、どうか行かせて下さい」
と言いますとお父さんは
「よしよし、では行って来い」
と本気で言いまして、踊り子は大層喜んで
「では行って参ります」
と東を目指して出かけました。どんどん進んで行きますと、賑やかな都へ着きました。田舎育ちの踊り子はこの都会の模様に全く驚いてしまいました。
 少し向うへ行きますと王様のお城がありました。その門の所に一枚の札が出ています。それには、こう言う事が書いてありました。
「この度西方の国より来る一人の勇者あり、この者天下無双の者との名声高し、如何なる人にてもこの者と試合して勝ちし者にはこの国の半分と姫を与え、王死せり後は王に即く事を得ん。」
踊り子はこれを読んでしまってからそのそばの太い木の根に腰をかけ、一人考え込んでいました。やがて夜になりました。
すると木の間をぬって東の方へ烏が何十羽も飛んで行きます。
「はて?おかしいな?」
踊り子はこう思ってコッソリそのあとをつけて行きますと広い広い野原へ出ました。ここまで来ると烏共は皆大きな声で「カア、カア」と鳴きますと向うの方で又大きな声で「コーンコーン」と言う声がします、見る間に狐は烏と近寄り始めまし。
と、狐の中で一番身体が大きいのが高い声で「コーンコーン」と鳴いたかと思うと忽ち大きな一人の人に化けてしまいました。他の狐や烏共は皆これにひれ伏しました。そうして
「今日は如何でございましたか」
と言います。
「今日はのう、ウワッハハハ、もう後一日で姫を貰う事になったんジャ、今日は大勝大勝」
「それはそれはお目出たい事で」
と言って元の狐に戻り西と北へそれぞれ皆行ってしまいました。踊り子は腕を組んで考えました。
「そうかそうか、あの勇士の正体は狐であったのか、よしそれなら一つ私が試合を申し込んで見よう」
 翌日夜が明けるとすぐにお踊り子はお城へと急ぎました。門まで来ると門番が
「こりゃこりゃ小娘何しに来たのジャ」
踊り子は
「勇士と試合を……」
「何?フフフ聞いてあきれらァお前のような娘ッ子があの勇士様に叶うって思ってるんか、早く帰れ」
しかし踊り子が聞かないので、根負けして、とうとう王様に取次ました。王は踊り子を呼びますと、踊り子はそこへ参りました。
やがて勇士はやって来ました。踊り子は王の取巻きの者に耳打ちして油あげを沢山買わせて来て、勇士の後の方へ積みました。
踊り子は刀を持って進みました、皆はあの小娘の負けるのは分り切っていると言って笑って見ていました。
 やがて試合は、始まりましたが勇士はお姫様を貰いたさに狐が化けて居るんですから、油あげの香りを嗅ぐとたまりません。その方にばかり気を取られているうちに黄金の光が一閃ひらめいたかと思うと、
勇士の首は忽ち地に落ちました、首は元の通りにくっついて狐の正体を現わし、
「コーン」と一声高くないて油あげをさらって山の方へ逃げて行きました。
 王は大層踊り子の機智を褒められた上、約束通り国の半分とお姫様とをやり、やがて老いた王が亡くなった後は王位を継ぎ、お姫様を妹分として、女王となって国にいる父母を招き、末長く楽しく暮しました。  
                  (了)

2019/03/03(日) スナックゴールド
         コレクターとは

 不自然な事だとあるコレクターは思う。
本当は何も持たなくていいと思う。何もかもを棄てちゃったコレクター、そんな人こそが本物のコレクターズ・アイテムになる。
いつもの朝、いつもの様に、あの鳥がやって来る。
朝、棚の上に鳥がやって来る。窓を開けると部屋の中に入って来て座る。
 レコードもかけず、鳥の鳴き声を聞く。私はベッドに入ったり出たりしてその様子を眺めている。
何処かへ行こうかと思ったりしている。

 ここはパリ、11区。
いつもの様に早く朝が来て、私は42区から出られないでいる。鳥のせいじゃなく、私自身のせいか。とにかく、出られない。たまに少し歩いて友人のアパートへ行く時もあるが、11区から出られない。
  ハリー・ベラフォンテが好きな私は、11区から出られない。11区は11区
数字が主役、とても静かな街だ。空はいつも大体曇りで、濡れている雰囲気だ。
時々遠くの方で建設工事の音が聞こえたりすると、安心する様な気もするけど、今は聞こえない。
 私は連続して、一室から出られない。

誰か来ないか・・・・
鳥が来ないか・・・・
雨が来ないか・・・・

 ある日、丸ごと全部、ハリー・ベラフフォンテのレコードを割る。
勢い良く割れる音、パリン・パリン、
11区でこだまするその、単一音。
                 (了)

2019/03/02(土) 南口ロータリー
時計

2019/03/01(金) 防犯カメラ
             たった一日の事

 日曜日の午前11時頃、オレンジ・ジュースがグラスの中でキラキラしているすぐそばで、理由もなく軽やかに草を編んでいます。なんだかとても不恰好な籠を作っているのです。
傷口を隠す様な気持ちで青い草をゆっくりとした手つきで交差させたり、折り返したりして作っています。すぐそばで猫が一匹、ひどく不細工な格好で見守っていてくれるのが、とても安心です。
 今までお互いに嫌という程あくびをして来ました。なんだかフニャフニャして気が抜けている様で、とても頼りない僕らの関係です。
休みの日でも昼間はほとんど外に出ず、部屋でそんな事をしています。でも洗濯物が溜まった日にゃ、猫を肩に乗せて、コインランドリーに行って来ます。
豆腐屋のはす向かいの小っちゃなコインラドリーで、タイマーの音を気にしながら、缶コーヒーで口を濡らして、ガラス越しに通りを行き交う人々を眺めて時間をつぶします。
 終了した洗濯機から衣類の固まりを取り出し、はがしながら、取りあえず明日着る物だけを乾燥機に移します。その帰りは、すし屋の前を通ると、キチンと閉じている店の入り口から、真っ昼間のがらんとした店内の緊張感がストレートに伝わって来ます。厳選されたネタと寿司ごはんがきれいに粒まで揃えられて、入り口に向かって頭を下げています。
 部屋に帰ると、狭い部屋にロープが張られ、それに洗濯物が次々にぶら下がり、部屋の中はカラフルで賑やかな景色になります。僕はそのひと仕事が終えた後、台所でコーヒーを淹れ、それを飲みながらしばらくただボーッとした時間を過ごします。猫は部屋の湿気を嫌ってか、玄関の片隅でただジーッとして丸まっています。
 夜になると、キャンバスに色が欲しくなって、電燈を暗くした中で、大きなナメクジが鈍い光を引きずりながら進んで行くように、ただ当てもなくウロウロとしながら絵を描く時もあります。
そして、しばらく頭を抱えてうずくまった後、たばこに火をつけ、吸い終わると逆立ちなんぞをして、製作途中の絵を見てからCDをトレーに乗せました。
 カチカチと時計の大きな音に被さる様に、ピアノ・ジャズ(ミシェル・ペトルチアーニなど)が始まると、僕の色あせて縮んだ胃がグーグーと鳴り出しました。そして、時に笑い時に歪みながら、意味もなく言葉が発生しては消えて行きます。(もらる)とか(ひとくち)とか(すちいる)とか(ふぁいぶ)とか・・・・
自分でも嫌になる位、理由もなく次々に言葉がただ頭に綴られ行って終わらない。
一体、何なのでしょうか。
 CDを3枚聴いた後、部屋の電燈を消したままテレビのスウィッチを入れる。短いニュース番組が終わった後、CMにやくしまるひろこが出たので、素早くボリュームを上げて声を聞いた。彼女の声は耳の奥に余韻を残してくれるのでとても好きです。それで珍しくビールを飲む気になった。でもあまりたくさん飲むと、また砂浜に放り出された様になってしまうので、350ml一本だけにして、また籠を編み始めました。ちゃんと出来上がったら何を入れようかな、やっぱり生き生きとしたもんがいいな、などと考えながら寝ました。
未来を感じさせてくれるもの。自分が入れれば一番いいと思うんだけど・・・・。
 深夜トイレに行って、台所で水をコップ一杯飲んだ後、何故だかそのまま落ち着いていると、今と言う瞬間瞬間が現実の時の中でくっつき合って一つの大きい塊になって頭にガツンとぶつかって来ます。そして深い藍に包まれた闇へと手を突き出し、窓の外の冷気を感じたりして見ます。
何だかもう眠れそうにないので、深夜2時過ぎに硬質なジャズ(チャールズ・ミンガスやマックス・ローチ)を聴きながら、何とか今日一日を閉じようとしているのです。
                           (了)


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