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2019/05/31(金) 海抜
約5.0m

2019/05/30(木) 南口
              北の地

 雪が降って来ると巷の音が静かになる。私はそれを好む。特に夜は雰囲気が良い。窓硝子に静かに止まろうとする粉雪が電灯のほのかな光に煌いて暖炉だけが唄っている。お茶など飲みながら、椅子に凭れて、煤けた天井を眺めていると、いつの間にか夜は更けて行ってしまう。そんな時は心が静まって来て、それがまた好きだ。
遠くない駅を出て行く電車の警笛が、何のこだまもなく遠い感じで消えて行くと、あとは虚ろで、人の心を内側の深い所で孤独に引き寄せる。 北の最果ての地は冬には何か流刑地を思わせる力がある。平素は気が付かないのだが、静けさが支配する暗さの中で、遠い望郷の念が起きる。
言って見ればそれは光線の反射しあう南の国への強い憧れである。
超現実の光と線がのあやなす、深く官能的な絢爛無比な幻の世界へのいざないである。それが強いので自分が呪縛された人間である事を思う。
余りに光線が少なく、余りに薄明が支配する清く澄んだ静謐な周囲に堪えられなくなるのだ。 時に私は汚れ濁った、人の気で蒸れるような場所を求める陰の深い、物の臭いのたなびく場所を求める。人恋しくなったのだ。最北の街は何処も乾いている。陰影は少なく、とても明るい。
その明るさは清く澄み渡り、人気からはずっと遠い。 雲が厚い壁を作って、暗い翳を宿しながら、微かに覗いた青空の澄んだ色は、東京や大阪や九州には見る事の出来ない物だ。
それは神秘に通じ、人を限りなく孤独にし、清潔であるが真空の様に冷酷である。何か宇宙自体を覗かせる様な気がする。
 私達の文化は過去には北緯三十度圏の亜熱帯付近の世界に作り出された。そこではそよ吹く風も人の息吹の様だ。もちろん土壌に密着した農業生産以外の所に立った社会など無かったのだから、人々は土地の湿気の中に半ば蕩酔しながら、官能をのみ通す世界を感じていた。
人と自然とは相対していたが対立はしていなかった。
木にも草にも精霊が宿っていた。その精霊から人間の子孫が出て来ても不思議ではなかった。
 北緯四十度圏の地帯では自然は人に対立する。人が人らしい環境に生きようとすれば、人は人工的に自然に対して立つ。家一つ建てても、都会一つを作っても全てそうである。自然はひたすらに激しく、明るさは冷たく真空だ。
天国と地獄とがここでは対立する。神秘と汚辱が、清澄と醜悪とが、神と悪魔とが、智恵と肉欲とが、柔和と冷酷とが対立する。
それは、かつての日本には有り得なかった精神の生長の地盤である。
北緯四十度圏の北の地の自然が、本州や九州やと違うだけではない。 自然と人間との関係が違っている事」を感じないではいられない。
つまりそれは二千年の間にアルプスの北側にヨーロッパ文化を育成して行った、あの北緯四十度圏と類似を持った自然である。
 そこでは人間は考える葦となって、肉感にまみれて、地上に人工の花を開く。北海道にもそういった人間の野望が生まれても良いのではないかと。
三十度圏の日本に真似てはならない。 新しい官能や感覚の歌、そして新しい実存の歌、新しい思惟の歌、新しい神秘につながる歌は、北海道から生まれる可能性が、大変はっきりしている様に思う。
                (了)

 ◎追記・文をUPするのは終りにします。写真だけに戻します。

2019/05/29(水) 庭先
溶岩

2019/05/28(火) 屋根の間から富士山
             化物思想 5  
 
 これ等樣々の化物思想を具体化するのにどう言う方法をもってしているかと言う時、それは国に依って各々異なっていて、一概に断定する事は出来ない。
例えば天狗にしても、インド、古代中国、日本、皆その現わし方が異っている。龍なども、西洋のドラゴンと、インドのナーガーと、中国の龍とは非常に現わし方が違っている。
しかし全てに共通した手法と方針は、由来化物の形態には何等かの不自然な箇所がある。
それを芸術の方から自然に化かそうとするのが大体方針らしい。例えば六臂の観音は元々大化物である、しかしその沢山の手の出し方の工夫によって、その手の工合が可笑しく無く、却って尊く見える。決して滑稽に見える様な下手な事はしない。
 ここに芸術の偉大な力がある。この偉大な力を分解して見みると、一方には非常な誇張と、一方には非常な省略がある。それで、これより各論に入って化物の表現即ち形式を論じる順序ではあるが、今はその時ではない。もし化物学と言う学問があれば、今ままで述た事は、その序論と見みるべきもので、ここには只序論だけを述べた事になるのだ。
要するに、化物の形式は西洋は全体に幼稚である。ギリシャやエジプトは多くが人間と動物の繼ぎ合せをやっている事は前に述べたが、それでは形は巧みに出来ても所謂完全な化物とは言えない。
 ロマネスク、ゴシック時代になると、余程進歩して一つの纏まったものが出来ている。
例えばパリのノートルダム寺院の塔の有名な怪物は継ぎ合せ物ではなく、立派に纏った創作になっている。ルネッサンス以後は論ずるに足りない。然るに東洋方面、特にインドなどは全てが渾然たる立派な創作になっている。
 日本ではあまり発達なかったが、今後は発達させようと思えば余地は充分ある。日本は今もって芸術上の革命期に際していて、思想界が幾分期待している。古今東西の思想を総合して何物か新しい物を作ろうとして考えている。
この機会に際して、化物研究を起こし、化物学と言う新一科の学問を作り出したならば、面白いだろうと思う。
昔の伝説や、樣式を離れた新化物の研究を試みる余地は屹度あるに違いない、と私は夢を見ている。
                 (了)

2019/05/27(月)
            化物思想 4

 以上で大体化物の概論を述べたのだが、これを分類して見みるとどうなるか。これは甚だ難しい問題であり、見方により各々異なる訳である。先ず差し当り種類の上から分類を述べると
(一)神仏(正体・権化)
(二)幽靈(生霊・死霊)
(三)化物(悪戲の為・復讐の為) 
(四)精霊
(五)怪動物
 の5つになる。
(一)の神仏はまともな物もあるが、異形のものも多い。そして神仏は往々にして種々に変相するからこれを分けて正体、権化の二つとする事が出来る。化物的神仏の実例はインド、中国、エジプト方面に極めて多い。
釈迦は既にお化けである。深く考えると恐ろしい化物が出来上るに違いない。
ヒンドゥー教のシヴアも随分恐ろしい神である。これが権化して千種万様の変化を試みる。
ガネーシヤ即ち聖天樣は人身象頭で、悪神の魔羅は隨分思い切った不可思議な相貌の者ばかりである。
エジプトのスフィンクスは獅身人頭である。エジプトには頭が鳥だとか獣だとか色々な化物があるが皆この内である。
 この(一)に属するものは概して神祕的で尊いものだ。化物の分類の内、(二)の幽霊は、主として人間の霊であってこれを生霊死霊の二つに分ける。
生きながら魂が形を現わすのが生霊で、源氏物語の葵の巻の六條御息所の生霊の如きは即ちそれになる。日高川の清姫などは、生きながら蛇になったと言うから、これもこの部類に入れても良い。
死霊は、死後に魂が異形の姿を現わすもので、例が非常に多い。その現われ方は皆、目的に依って異なる。その目的はおよそ三つに分れる様になる。
一は怨みを報じる為で一番怖い。二は恩愛の為で寧ろいじらしい。三は述懐的である。一の例は数えて見るのにいとまがない。
二では謡いの「善知鳥」など、三では「阿漕ぎ」「鵜飼」などその適例である。幽霊は概して全体の性質が陰気で、凄いものだ。相貌なども人間と大差がない。
第三の化物は本体が動物で、その目的に依って悪戯の為と、復讐の為とに分れる、悪戯の方は如何にも無邪気で、狐、狸の悪戯は何時でも人々の笑いの種となり、如何にも陽気で滑稽的である。
大入道、一ツ目小僧などはそれである。しかし復讐の方は鍋島の猫お騒動の様に随分しつこい。 
第四の精霊は、本体が自然物である。この精霊の最も神聖なるものは、第一の神仏の類に入る。例えば日本国土の魂は大国魂命となって神になっている如きである。物に魂があるとの想像は昔からあるので、大は山岳・河海より、小は一本の草、一輪の花にも皆魂ありと想像した。即ち「墨染櫻」の櫻「三十三間堂」の柳、などがその例で、これ等は少しも怖く無く、極めて優美なものである。 
第五の怪動物は、人間の想像で捏造したもので、日本の鵺、ギリシャのキミーラ及びグリフィン等がこれに属する。龍、麒麟等もこの中に入るものと思う。天狗はインドでは鳥としてあるから、矢張りこの内に入る。
この第五に属するものは概ね面白いものと言う事が出来る。 以上を概括してその特質を挙げると、神仏は尊いもの、幽霊は凄いもの、化物は可笑しなもの、精霊は寧ろ美しいもの、怪動物は面白いものと言う事が出来る。
                (続)

2019/05/26(日) 工事中
          化物思想 3

インドから西へ行くと、ペルシャが非常に盛んである。ペルシャには例の有名なルステムの化物退治の神話があり、アラビヤには例の有名なアラビアンナイトがある。エジプトもそうである。洋々たるナイル河、荒漠たるサハラ沙漠、これらは大いに化物思想の発達を促した。
 エジプトの神樣には化物が沢山ある。併しこれがギリシャへ行くとかなり異なり、かえって日本と似て来る。これ山川風土気候等、地理的関係の然らしめる所であり、凡てのものは小こじんまりとしており、したがって化物も皆小規模である。ギリシャの神は皆人間で僅かにお化けはあるが、怖くないお化けである。それは深刻なインドの化物とは較べものにならない。
例えば、ケンタウルと言う悪神は下半身は馬で、上半身は人間である。又ギカントスは両脚が蛇で上半身は人間、サチルスは両脚は羊で上半身が人間である。凡そ真の化物と言うものは、何処の部分を切離しても、一種異様な形相で、全体としては渾然一種の纏った形を成したもので無ければならない。つまりはギリシャの化物の多くはかくの如く継ぎ合わせ物である。
故に真の化物と言う事は出来ない。
 しかし北ヨーロッパの方面はどうかと言うと、この方面に就いては私は余り多くを知らないが、要するに幼稚極まりないものであり、規模が極めて小さい様である。つまりヨーロッパの化物は、多くは東洋思想の感化を受けたものであるかと思われる。以上述べて来た所を総括して、化物思想はどう言う所に最も多く発達して来たかと考えて見て、化物の本場は熱帯で無ければならない事が分る。熱帯地方の自然界の厳しさから察するに、生活が深刻な熱帯で信仰を重んずるに於いて、化物思想が発達したものと言える。
例え熱帯でなくとも多神教国には化物が発達した。
例えば西蔵チベットの如き、そのラマ教は非常に妖怪的宗教である。その様にしてインド、アラビア、東は日本まで、西はヨーロッパまでの化物を総括して見ると、化物の策源地はアジアの南方である事が分るのである。
 尚、化物に必要な条件は、それぞれの国の文化程度と非常に密接な関係を有する事になる。化物を想像する事とは、理は理にあらずして情である。
理に走ると化物思想は発達しない。例え化物が出ても、それは理性的な無味乾燥ものであり、情的な余韻を含んでいない。従って少しも面白味が無い。
故に文明が発達して来ると、自ずと、自然に化物は無くなって来る。文明が発達して来ると、何処か漠然として稚気を帶びて来て、面白い化物思想などを受け入れる余地が無くなって来てしまう。
            (続)

2019/05/25(土) 新築
          化物思想 2

 化物が国によってそれぞれ異なるのは、各国民族の先天性にもよるが、又土地の地理的関係による事が大であろう。例えば日本は小島国であり、気候温和、山水も概して平凡で別段高嶽峻嶺で深山幽澤と言うものもない。全てのものが小規模でもである。その我国に雄大な化物のあろう筈もない。
 古来我国の化物思想は甚だ幼稚で、あるいは殆ど無かったと言っていい位だ。日本神話は化物の伝説が甚だ少ない。日本の神々は日本に生じた祖先となる人間であると考えられていて、化物などとは思われていない。それで神々の内で別に異樣な相をしたものはない。
猿田彦命が鼻が高いとか、天鈿目命が顏か可笑しかったと言う位のものである。又化物思想を具体的に現した絵もあまり多くはない。記録に現れたものも殆ど無く、弘仁年間に薬師寺の僧が著した「日本霊異記」が最も古いものだろう。今昔物語も往々化物談が出てはいる。 日本の化物は後世になる程面白くなっているが、これは初め日本にの地理的関係で化物を想像する余地が無かったためである。
その内古代中国から、道教の妖怪思想が入り、仏教と共にインド思想も入って来て、日本の化物はこのために大層豊富になったのである。
例えば、インドの三眼の明王は変じて通俗的三眼入道となり、鳥嘴の迦樓羅王変じてお伽噺の烏天狗になった。又日本の小説によく現れる魔法使いが、不思議な芸を演じて見せるものの多くは、半ば仏教から、半ば道教の仙術から出たものと思われる。
 日本が化物の貧弱なのに対し、古代中国に入ると全く異なって来る、中国はあの通り厖大な国であり、西には崑崙雪山の諸峰が際涯しなく連なり、あの深い山々の奧には屹度何か怖ろしいものが潜んでいるに相違ないと考えられた。
北にはゴビの大沙漠があって、これにも何か怪物がいるだろうと考えられた。彼等はゴビの沙漠から来る風は悪魔の吐息だと考えたのだろう。かくて古代中国には昔から化物思想が非常に発達し、中には極めて雄大なものがある。尤も儒教の方では孔子も怪力乱神を語らず、鬼神妖怪を説かないが道教の方では盛んにこれを唱道するのである。
 形に現わされたもので、最も古いと思われるものは山東省の武氏祠の浮彫りや毛彫りの様な絵で、これは後漢時代のもでのだが、その化物は何れも奇々怪々を極めたものである。
山海経を見ても極めて荒唐無稽なものが多い。小説では西遊記などにも、到る処ろ痛烈なる化物思想が横溢している。歴史で見ても最初から出来る伏羲氏が蛇身人首であって、神農氏が人身牛首である。こう言う風に中国人は太古の昔から化物を想像する力が非常に強かった。これみな国土の関係によると思われる。
 更にインドに行くと、インドは殆んど化物の本場である。インドの地形も中国と同じく極めて広漠な土地で、千里の藪があると言う如き、必ずしも無稽の言い草ではない。天地開闢以来いまだ斧鉞の入らざる大森林、到る処に蓊鬱としている。
インダス河と、ガンジス河、他の上流を流れる小河川の濁流は澎洋として果ても知らず、この偉大なる大自然の内には、何か非常に恐るべきものが潜んでいると考えさせる。
実際又熱帯国には不思議な動物もいれば、不思議な植物もある。これを少し形を変えると直ぐ化物になる。
 インドは実に化物の本場であり、神聖なる史詩ラーマーヤナ等には化物沢山たくさん出て来る。ヒンドゥー教に出て来るものは、何れも不思議千万なものばかり、三面六臂とか顏が三面、手足が無数なものとか、半人半獸、半人半鳥などの類いが沢山ある。仏教の五大明王等ヒンドゥー教から来ているのだ。          
                   (続)

2019/05/24(金) 切り株
       化物思想 1

 化物思想と言っても、別に専門的に調べたわけでもなく、又そういう専門があるのかどうかも知らない。とに角私は化物と言うものは非常に面白いものだと思っているので、これに関するほんの漠然とした感想を、少しここに述べるに過ぎない。
 私の化物に関する考えは、世間の所謂化物とはかなり範囲を異にしている。まず化物とはどう言うものであるかとは、元来宗教的信念又は迷信から作り出だされたものであって、理想的又は空想的にある形象を仮想し、これを極端に誇張する結果、勢い異形の相を呈するので、これが私の化物の定義になる。
即ち私の言う化物とは、大変範囲の広い解釈になる。世間の所謂化物はその中の一つの分科に過ぎない事になってしまう。世間で化物と言うと、何か妖怪変化の魔物などを意味する様で、極めて浅薄らしく思われるが、私の考えている化物とは、余程深い意味を持つものだ。
特に芸術的に観察する時は非常に面白いものだ。 化物の一面は極めて雄大で全宇宙を抱括する、しかも他の一面は極めて微妙で、殆んど微に入り細に渉る。
即ち最も高遠な神話となり、最も卑近な場合はお伽噺話となり、一般の学術、特に歴史上に於いても、又一般生活上に於いても、実に微妙な関係を有しているのだ。
もし歴史上又は社会生活の上から化物と言うものを取り去ったならば、極めて無味乾燥になるだろう。従って我々が知らず知らず化物から与えられる趣味の豊富さは、想像に余りある事であり、確かに化物は社会生活の上に、最も欠くべからざる要素の一つであると言える。
 世界の歴史風俗を調べて見ると、何国、何時代に於いても、化物思想無き処は決して無いのである。然らば化物の考えとはどうして出て来たか、これを研究するのは心理学の領分であり、我々門外漢には理解しにくい。
私の考えでは「自然界に対する人間の観察」これがこの根本にあると思える。自然界の現象を見ると、あるものは非常に美しく、あるものは非常に恐ろしい。あるいは神秘的なものがあり、あるいは怪異なものがある。これには何かその奧に偉大な力が潜んでいるに相違ない。この偉大な現象を起こさせるものは人間以上の者で、人間以上の形をしたものなのだ。この想像が宗教の基となり、化物を創造するのである。
かつ又人間には由来好奇心が有る。この好奇心を大いに刺激されて、空想に空想を重ね、遂に珍無類の形を創造する。
故に化物は各時代、各民族に必ず無くて無らない事になる。従って世界の各国はその民族の差異に応じて、化物への認識が異っているのだろう。                  
             (続)

2019/05/23(木)
郵便ポスト

2019/05/22(水) 工事予告
            空間論 3

 例えば、小説を読んでいて使う所の「気持が好い」と言う言葉の取扱いを考えよう。この言葉に対するに当って、如何なる方向に依って、如何なる枠の中でこれを捉え得るかと言う場合、「気持が好いと言った」とする感じた立場があり、それを小説は表現する一つの「面」を持たなければならない。ここに小説の「空間的性格」がある。
 この方向と距離と枠が自由になる時、ここに演劇の世界が展けて来る。そこでは、ただ「気持が好い」とだけ語らせる。そして、無限の観衆の角度に従って、各々の立場からそれを受取らせる。
往々にして、劇作家は、自分の中に、無限に分裂した自己を持っていて、小説にするには余りにも多くの自分が有り過ぎていて、それは劇の姿を持って彼自身の無限の距離感を表現するとも言える。
この絵画と彫刻、小説と演劇の両者それぞれの芸術的空間が、二次元と三次元の両性格を持っている事は興味あるが、この両者とも個人の自我が、自我との対決の距離感の上に構成されていると言えるのだ。 映画の場合は、その見る眼はレンズであり、それを描くものはフィルムであり、それを構成するものは製作者・委員会である場合、この集団尾的性格との間の距離の上でしか成立し得ないと考えられるのだ。
 集団的制作者と、集団的観衆とは、ただ一つの人間群像であるにも拘らず、歴史的時間は、未来への「問の記号」として、その両者の隙間の中に差し入れるのである。大衆の、その歴史の中に、自らを切断する「切断空間」として、カットが、その時その時に答の試みを出すのである。
 ここでは既にに弁証法的主体性が、その論理的根幹となって新しいバトンを受け次ぐべき課題が提出されると言うべきである。この個人の存在論で用いる「不安と怖れ」との言葉の代りに、「自分自身を否定の媒介とする」と言う考え方に入れ換えて見る時、個人から集団への大なる飛躍が初めて可能となる。
エーテルが物質の「中間者」としている様に、凡ての物を結び付けていると考える立場を取ると、昔のカント流の形式的空間に帰って行くのだが、「媒介」が「無媒介の媒介」として、自分を切って捨てる事で自分が発展して行くと考える時「不安」は「自分自身を否定の媒介とする」と言う考え方に代って、新しい弁証法的な空間論を構成する事になるのだ。 カントの形式的空間から逃れようと、今、哲学はもがいている。
「生きた空間」と言うテーマは、芸術の空間論で大切なテーマであり、今後の課題にもなっている。
                     (了)

2019/05/21(火) とまれ
       空間論 2    

この「ひたすら」と言われる一義的方向が、一義的であり得なくなって、ただ距離はあるが、それはアリアドネの糸に導かれる洞窟の中の彷徨いの様に、無限に彷徨う面が現れた時に、そこに二次元空間が現われるのである。
彷徨いの不安、その広大さの不安、無限の方向に距離を感じる世界である。しかし、距離が無限であるだけで、自分が動いているわけでは無いのである。その自分が動いて、自分が方向の舵を持って動きつつ、距離感の中を動き出した時、第三次元が生まれて来るのである。
 以上の様な考え方で空間を考える立場では、自分が自分を見ると言う本質的な視覚が出現する時、それは、空間を自分と自分との間の距離の出現として取扱うのである。
「見る」と言う事が既に、「生きた空間」を形作っているのである。 ベッカーのこの様な考え方は、所謂空間的アプリオリティから「距り」が生まれるのでは無く、寧ろ自分が何か自分から距離を持たれている事、その事から空間が構成されて行く。
空間の中に命があるのでは無く、生、つまり生きているこの空間の中に空間があると言うのだ。
 ここに、私達が自然と自分との間に画布を立てて、それを距てる事を考えるに、生の立場からするなら、自然に対峙する一つの視線を持った自分と、その次の瞬間に視線を投げる自分との間の隙間に、画布が静かに滑り入って来て、その切断を満たそうとするとも考えられるのである。
そう考える時、画布の二次元性は決して物理的二次元性では無い。新たに構成される芸術的な生きた二次元性である。
白い画布は、無限に流れて止まない時間の中に、自分が自分に問い掛ける「疑問記号」に外ならない。
 存在に対する問の設立として、私達は白い画布を掛けるとも言える。方向と範囲を定めた「距離」の生きた印となるのだ。 この一定の方向が自由になり、範囲が自由となり、この距離が動き始める時、この芸術的空間が彫刻となるのである。
美術館の所謂物理的三次元性と、彫刻の芸術的三次元性は対応した物は持っていても、同じ空間性の中には生きていないのである。
「影」と「動いている姿」の差があると言えるだろう。 この絵画と彫刻の二次元性と三次元性の差は、文学の世界では、小説と戯曲の上に現われて来る。
                        (続)

2019/05/20(月) 公衆電話
          空間論 1
 
 ヘーゲルの弁証法が生まれる周囲には、その頃の青年ドイツ派ロマン的皮肉アイロニーがあると考える人々がある。ロマン的皮肉とは、ヘーゲルの友人のゾルゲルに代表される一つの表現、自分達の凡ての行いや言葉のすぐ側に
「黙ってジッと自分を見つめている眼差し」があると言う不安と怖れが存在する。
自分の反省の中にある、限りない圧迫感である。自分の中に、いつでも自分を滑り抜けて、自分を見入る眼がある事への苦悩である。 この皮肉(アイロニー)、不安は、その頃の青年ロマン派の人々の合言葉であり、共通にあったドイツ近代精神の流れでもあったと思う。
 この不安の凝視は、存在論で言うなら、本質的凝視とでも言う、如何にもドイツ的な、北方ゲルマン的な眼差しを感じさせる物がある。近代人の視覚の中に類型される所の視覚であり、ドイツは、ロマン主義的アイロニーにまで盛り上るのに150年の後れを取った視覚でもある。ハイデガーの存在論も、この不安の凝視を哲学の中に再現している。そしてそれを、「生きた空間」と表現して、距離の不安の言葉を持って、同じ主題を取扱っているのだ。
ハイデガーはカント的に、初めから形式的に空間なる物があるのでは無く、そんな空間は只の「間隔」の世界である。自分があるべき自分の位置から外れている時、その時初めて、自分からの「距離」即ち、離れ慣れている不安としての空間が生まれると言う。この存在が存在から距てられている怖れが、生きた空間の本当の感じであると考えるのだ。
サルトルが常に表現する所の不安の空間の意味でもある。 自分が、自分から抜け去り、自分を見ていると言うロマン的皮肉も、この自分から自分が距たっていると言う不安も、その根柢にあるべき所を得ていない知識人の嘆きが共通に流れている。
 ハイデガーの弟子であるオスカー・ベッカーは、彼の論文「直観的空間のアプリオリ的構造」の中で、その立場から、空間的次元を「生きた空間」として取扱う試みをした。 彼は、一次元を、「何物かに向う所のこころ」と考えるのだ。
自分が、一つの方向への距離を感じそれに向って、真っ直ぐに向う事である。(日本語で「思う」は、恋をする、好意を持つ、そちらに向って、顔面を向いて方向づけるの意味を持っていて、段々「考える事」に転化するのである。)ベッカーでは、その場合、その方向が「ひたすら」である姿勢が必要であると言う。              
                (続)

2019/05/19(日) えぼし号
運休

2019/05/18(土) パレード看板
                意識 2

 私たちは口を開けば「現実」と言っている。しかし、この現実について、私たちが何を知っているだろう。所謂瑣末主義と言う、眼の前に見えている以外の本当の現実の何を知っていると言えるだろうか。私たちの肉体の何処の部分の何を知っているだろう。
足だとか手だとか、腹だとか言ってみても、腹具合以上の感じ以外に何を知っているだろう。受身の何か、それが動きを持ち行動している事を肉体的に感じ、見守っているだけなのではないか。知っていると言える程の何を知っているだろうか。
足で立ち、手で物を持っている私たち自身を、自分たちは、はっきり知り尽くしているだろうか。 私たちはただ受身で立ったり歩いたりしているだけである。
知っているという以上、この手の骨格が、足の骨格から変わって来た何万年か、百年毎の変革位は知っていても良い筈だろう。なのに何も知らない。ただその長いプロセスの結論として、ステッキを握り、握り拳を握って、時には相手をなじっているのだ。
 しかし、知っていると言う以上、人間が地上に立ったと言う、数十万年の歴史、手が自由になった時の、その「自由」の感じを、再び継承し、意識し、受身で充分に知らなくてはならない。 それからまた例えば、一人で独白をして、言語を創出した人間の永い、そして初めてでは愉快だったに違いない気分も、受身で知るべきだろう。
そして、それらの事から、宇宙に、石コロだろうが、木切れだろうが、秩序と法則を持っているらしい事を発見した人間の初めての驚き。これも思い返して見るべきだ。
 何も知らないこの宇宙に、こんな存在が唯一つ、いくら小さくても唯一つ出来たこ事、人間が出来た事、この事をこの世紀でも驚くべきである。 例え一万年の歴史が、どんな誤りを犯していても、この数十万年の驚くべき現実に比べれば、数十日の旅行の最後の一日に風邪を引いている様なものである。
ただ一日いくら鼻を垂らしていても、人間が鼻を垂らすものである事を悲観して首をくくると言う訳にも行くまい。
数十万年の勝利の跡が、どの街のどんな隅っこにも転がっているのだ。私たちの肉体のどの隅っこにも。
 嘘だと思うなら、立ち上って歩いて見よう、嘘だと思うなら独り言を言って見よう、その簡単な事実が、数十万年の勝利の印である。 こんな単純な現実、これは遠い水平線の様な現実である。
しかしどんな巨大な建造物も、どんな罪悪も、この人生の舞台上に立つ様にしか出来上っては来ないのだから。 
この地平を離れるとどんなものも、過剰の翳を帯びて来る。何か力を失った物とならざるを得ないのでは無いか。いくらどんなに巨大なスケールであっても。
              (了)

2019/05/17(金) 自転車駐輪場
          意識 1

 何年前だっただろう。親不知子不知のトンネルを出た処だった。前に座っていた胸を病んでいる様な青年が、突然
「ああ海はいいなあ、海は広いし、いいなあ……」
と言って、一直線に伸びている暗い日本海の水平線を、凝視しつつ言うのだった。そして前に座っている私を捕まえて、色々な事を言ったが、
「単純で、静かな、海の一直線は良いですねえ。私は東京で仕事で体を悪くして、故郷の山奥の温泉に行くんですが、東京はこんな単純な美しさはありません。男の子と女の子が、山の奥でただ愛し合うという様な単純な美しさがありません。」
と言う様な意の事を言った。
そして、海を見ながら「ああ海はいいなあ。いいなあ。広いなあ。」と頭を振りながら、いくら言っても足りないように言い続けていた。
 私は、この二、三年、東京に住み着いて、このノスタルジア、淡いユートピア気分が解る様な気がしたのだ。 朝の満員の電車の中にラグビーのごとく突入し、犇めくお互いの中に湧き出て来る無意味な憎しみ、肌と肌をこんなに密着しながら、顔と顔を、こんなに寄せ合いながら、お互いに理由もなく、水の様に漲っている憎悪の中に沈み、揺られているのである。
「お早よう」と言う代わりに、東京では数百万の人がこの憎しみの中に浸され、「お休み」という代わりに、また数百万の人がこの哀しみの中に揉れて、無意味な一日を過ごすのだ。
歴史が始まって以来、こんな形の人間の集合がかつてあっただろうか。数十年前までは、お祭りにせよ、戦争にせよ、もっと散りじりになり、もっとハッキリした感情の理由と自由とを持っていた筈だ。 ただ過剰である事が理由で、こんなに憎み合っている人間の集合は、いずれの文化段階にも存在しなかっただろう。
過剰な中に、更に過剰になるべく突っ込んで行く朝な朝な、夕な夕なの東京の人間集合、日本知識人の意識「意識の過剰」の、一つの象徴であるかの様である。何か過剰なもの、心を、これ位現わしているものはきっと無いだろう。
 私は一つの童話を思い出す。強力な巨人がいた。彼は大地に身を置いているか限り、その力を失わない。彼は時々不意に、大地から身を離すと、その力を回復するために、その大きな掌を開き、そのたなごころを、シッカリと大地に着けると言う。私は力を回復するために、大地にじっと掌を置いている巨人の姿を美しいと思う。
                  (続)

2019/05/16(木) 海岸付近
月極駐車場

2019/05/15(水) ソラマメ
         素人図書館員
 
 生まれて来る時に自分の将来の仕事を考える者は無いと思うが、それでも若い時から一生の目的を考えるものだ。ところが私は若い時はもとよりの事、中年になっても老年になって来ても夢にも思わなかった図書館員と言う職業に六十歳を超えてから就いた。
業平朝臣の言い草ではないが                        
「忘れては夢かとぞ思う思いきや」
であり雪は踏み分けないが毎日図書館を見て喜び、眺めているのだ。 
 私の管理している図書館は旧県立図書館である。
玄関を入って自分の部屋まで行く間はやや長い廊下を通る。一人当り2畳に足りない伏屋を出て毎日出勤すると、この廊下を歩く数分間に一種の心のゆとりが起る、その数分間が図書館について自責心の最も起る時である。
毎日退庁の時にもこの廊下を通るが、その時一日の経過を顧みてホッと息をつきつきやはり一種の自責心が起るのだ。つまり直接仕事に心を占領されていない時にはこのやるせない悩みが生じるのだ。素人のくせによくも平気でやっていられるな、そしてお前はこの図書館をどんな風に発展させて行くのか、第一図書館とは何であるかを知っているか等々思いながら。
 図書館が何であるか位は素人の私でも知っている。その方面の教科書の第一頁に明記してあるのだ。しかしその実、図書館の性格は広大無辺であって捕捉する事が容易ではない。しかし少くとも図書を集めて置いて人に読ませると言う事は最少限度の要件だろうと誰でも思う。
大きい意味では確かにその通りだ。しかし具体的な一つの設備として考えると書物の無い図書館も考えられないと言う事は無いのだ。医療の道具を持たない臨床医師があっても良い。
 図書館を訪ねて「お宅の蔵書は何十万冊ですか」と質問するのが常套手段だが、一册もありませんと答える図書館があっても良さそうだ。勿論、全くの無手勝流では困るが、例えば日本全国、又は世界全体の図書の題目とその所在が即座に解るような、データの入ったカードばかりの図書館は考えられないだろうか。
 チベットの御経が知りたいが何処にあるでしょう。マルコポーロの東方見聞録の最古版が読みたいが、何処の図書館にありますか。膝栗毛で有名な弥次さん喜多さんの住んでいた長屋の地図は何処の図書館に行けば見られますか。
こんな質問がすぐに満足させられる様な図書館があっても良いだろう。良いであろうではない、日本では一番必要なのだ。日本は不思議な国で昔から随分世界の書物が集まっている。思いも付かない世界の珍本もあるのだ、また特殊な調査価値のものもあるのだ。しかしそれが目的に応じて利用出来ないのだ、分散所蔵されてしまっていて、これを求める事は枯草の中で縫い針を探すよりも厄介なのだ。所謂物知りが時々断片的なものに目を付けて
「有った、有った」と喜ぶが、綜合カタログが出来ていれば、問題は大部分解決される。
 アメリカには千五百万種以上の書物があるらしい。勿論正当な利用価値のないものは除かれている。そしてその書物が図書館にある限り綜合カタログとして整頓されているそうだ。こんなカードは議会図書館にある。ハーヴァード大学にも有る、ミシガン大学にも有るそうだ。そして、日本には無いのだ。
 図書館では本を盜まれる事が多い、切り取られる事が多い、まさか切り取り強盜の熟語を知った為でもあるまいが。それ故公開書架は中々実行出来ない。図書館と牢獄とは同じ様に扱わねばならない。これが 日本の伝統だ。かつて公開書架をやった公共図書館が忽ちにして25%の書物を盗られてその制度を止めてしまった例がある。
私の所の図書館では原則的に公開でやって見た。極微量の損害はあったが兎に角続けている。折角の大々的公開書架制度も時々は弱點を示す。かと言って図書館を牢屋にするのは嫌だ。これから段々良くなる図書館を悪くさせてしまうのは悲しい。百科辞典の様な大きな書物の続きものまで持ち出された図書館があるそうだが恥かしい極みである。図書を盜んで磔になった様な画の額でも掲げろと助言する人があるが冗談ではない、我々は空想家みたいだとのの批難を甘受しても美しい図書館をやって行きたいのだ。
 我々自身は国法秩序の中に於いて煮え切らない流儀を顧みながらも各地バラバラ流で苦しんでいる。その他色々の公共物を私物化する非道的問題を解決して美徳の国に図書館が栄えるといつかは威張りたいものだが、遠い遠い先の事だろう。
              (了)

2019/05/14(火) 空地
         趣味 2

坪内逍遙の和歌の中に、こう言うのがあって、私は実に感服している。
    『人みなのすさびを我はつとめとす、このつとめ無くば我生けらんや』
何人も知る如く、坪内逍遥は我が国文壇の最高権威であり、ことにその半生を劇の研究に捧げた。劇と言うものは謂わば社会の娯楽機関であるから、一般の人はただこれを見て楽しむ。そして所謂見物気分、物見遊山の気分で、懷手でもして、いかにも暢気なものである。
ところがそれを生涯の研究対象とした坪内氏などは、一生涯の重苦しい負担の様に考えていた。即ち、彼に取っては、芝居そのものは最早単純で安易な快楽ではなく、絶えざる苦心と焦慮と、労役と、憧憬と、向上の対象であった。彼の歌はこれを歌っている。
そしてこの辛労と労作とがあればこそ、この一生が坪内氏自身にとって極めて生き甲斐のあるものなりと歌ったのである。
 私が感服するのは主にこの点である。実際、無責任に面白半分に芝居見物をして楽しむ人々は真の意味に於いて果して楽しいのだろうか。
もし楽しいとしても、それが最も高尚な楽しみであろうか。それとも、芝居を一生涯手にかけながら、努力で一貫している坪内氏の方が、更により多く、より深く、楽しいのだろうか。
 実際、詩人にしろ、小説家にしろ、画家にしろ、(あるいは喜劇役者でも、漫画家でも、落語家でも)他人に楽しみを与えるために、自分では何程も苦しまない人はない、そうして初めて他人にも趣味や快楽を感動させるほどのものが生れ出て来るのである。
と言っても文芸家は全て他人の趣味や感興に媚びるために全力を尽くすべきだと言うのではないが。
私の言うのは、自分だけの独りよがりの浅はかな、趣味的満足では、到底ロクなものが出来ようわけがないと言うのだ。そんな事で他人が承知しない事は勿論だが、よく落ち着いて考えたなら、自分自身をさえ真に満足させてはいない事に気付かねばならない。
 我々の生活そのものを楽しみ、その中に趣味を見出し、時として他人のためにその楽しみを作り出すとしても、決して、他人の手によって作り上げられた趣味の供給のみを期待しないと言う態度を我々が持ち得る事があれば、それこそ実に崇高な、厳粛な、真面目な、積極的な態度と言い得る。
しかるに、導き出された趣味そのものの享楽のみを要望するなら、それこそ立派な芸術の理解者で、ただ酒に狂い色に耽る事の代わりに文章や音楽や絵画を持ち、表現しているに過ぎない。その態度は極めて消極的だ。それ等は、遂には我等を危険に導かずには置かないだろう。
 我々――ことに青年達が、志を励まし、勇を鼓舞して、望み多き門出を試みる時には、老人達のする様な、右肩下りの路ばかりを選ぶ様ではいけない。必ず一歩一歩高きに登り行くだけの意気がなくてはならない。それが楽でない事は分かり切っている。
しかし、その中にだらだらした下り坂を、底も知らずに下って行くよりも、一層深い、根強い、意味のある楽しみも含んでいるのであるから。
                           (了)

2019/05/13(月) 空き巣に注意
                  趣味 1

「それは君と僕の意見の相違だ。」と互いに頑張り合い、譲らない。こんな事は世間の政治家の間などには、珍らしくも何とも無くなってしまったが、「趣味の相違」と言う捨て台詞を美術や文学などに興味を持つ人々との間にも折々聞かされるので、その度ごとに私は厭な思いをする。 
 世の中の色々な考え方が、デモクラティックになって行くに従って、意見の相違も重大さを増して来るし、文芸上の事も畢竟趣味の相違に、あらゆる議論が帰着するかも知れないが、それは究極の際の事であって、最初から「趣味の相違」を持ち出すのは不謹慎な、そして危険千万な話である。
 趣味には相違と言う事の他に階級がある。即ち高い低いがある、浅い深いがある、精粗の別がある、あらゆる人のあらゆる趣味を同一の平面上に配列して、それをみんな互角だとするのはむしろ突飛な、乱暴な考えだ。ある人は高く、深く、練れた趣味を持ち、又ある人は浅く、低く、半端にしか持て無いと言う事は、実際目の前に幾らでもある事だ。
そんな場合にでも『それは趣味の相違です』と澄まし返っている訳には行かないだろう。低い所から高い方へ登るのは、骨が折れる物だ。しかし骨を折ればこそ高くもなるのだ。高くなればこそ骨も折れるのだ。従がって骨が折れただけの效能も無ければならない。水は低きに赴く。
 趣味も、多くの人の信じている様に、ただ 楽な楽しみ方と言うだけを良い事とするならば、ただ低下する事はあっても、向上などはあり得ない。趣味を享楽そのものと誤解したり、「趣味の相違」を楯に取って澄ましたりしていれば、低下、墮落して行くのは請け合いである。
 よく世間では、趣味の享楽に大騷ぎをしている一群の人々がある――私自身もそんな連中の一人だと時折誤認されるが――そういう種類の人達は趣味と言う物を人間の生活から引き離して
(つまり日々の生活の中から趣味的なエッセンスだけを蒸溜して・・・)趣味そのものだけ楽しもうとするのだろうが、これは私にとっては、感服出来ない話なのである。
 ラテン語の諺に
「文学の無い生活は死なり」
と言うものがあるが、今では、これから更に一歩進めて、我々の生活の中から、文学とか美術と言うものだけを引き出し抜いて、その他は全て捨てて、ただこれだけを楽しんで行くと言う風に、余程文芸趣味の享楽に重きを置いて考える傾向が生じつつある。なるほどそれ位の勢いでなければ、進歩も無く、得も無いかも知れない。
そして又その人の熱心の程度によっては無理も無い事だろうが、ともかくも全的生活から趣味だけを引き離すなどと事がそもそも我々を遠い悪趣味へと導き去る第一歩だ。 文学と言う言葉も無く、美術と言う名前も無く、ただこの世の中で何か一つの仕事を見出して、それに従事し、沒頭して行くうちに、何となく己に特有の楽しみも湧く、それも半ば無意識的に。そして楽しむと言うのでも無く、その癖知らず知らずの間に楽しく日を送る事が出来るならば、その時こそ真に趣味生活の第一歩へ踏み行ったと言えるのではないか。
 働くことが楽しく、毎日を送る事が楽しく、生きている事が楽しく、そしてそれより外に何ら楽しみも無く、また何らの楽しみを求めない。これが本当の生活上の趣味であり、又趣味の生活である。だから私は、「文芸なき生活は死なり」と言うよりも、「生活なき文芸は死なり」と言いたい位に思う。  
                         (続) 

2019/05/12(日) HOUSE DO 
             雪割草 2

  雪割草を育てている人は知っているだろうが、ちょっと見ると上に芽があり、下に長い根が付いている様だが、よく見ると下に付いている物の大部分は、根でなくて、葉を押し曲げた物なのである。
おそらく丈夫な葉がスクスク延びているのを、そのままでは送りにくいので、無残にも押っぺしてクルクルと縛りつけてしまったのだろう。
私が第一に遭遇した問題は、この葉を如何に取り扱うべきかだった。取ってしまうと根らしい部分が殆どなくなってしまう。かと言ってもそのままではバクバクして、いくら土を押えても、根が締らない。2、3度出したり入れたりしたが、結局面倒くさいのを 我慢して、葉を付けたまま植えてしまった。たっぷり水をやって、ガラス戸の内側に入れると、何だか、大きな仕事をやり遂げた様な気がした。
しかし、これだけで、大分ウンザリした。従って、残りの何10本は、庭の隅に、いい加減な穴を掘って、植えてしまった。
 それからしばらく寒い日が続いた。一体、私の住んでいる所は暖かいので有名だ。が、この冬はいつもより寒い気がした。
毎朝、窓ガラスに、室内の水蒸気が張りついて、見た目には、美しい模様を描き出した。 部屋の中は暖かかった。
雪割草の蕾は、目に見えて膨らんで行った。ただ、一向に茎らしい物が出て来ない。
きっと、福寿草のように、土にくっついて花が咲き、あとから茎が伸びて葉を出すのだろう。それにしても、早く咲きそうだ。この分なら、お正月には確かに花を見ることが出来るだろう。と、私は大いに喜んだ。
 ところがある朝気が付くと、一番大きな蕾が見えない。チラリと赤い色を見せていた蕾は、きれいサッパリともぎ取られている。さては近所の野良猫が食ったかなと思い、その晩から、夜は野良猫の目に入らない部屋にしまう事にした。 それにもかかわらず、蕾はドンドン減って行く。もともと数えるぐらいしかなかったのだから、4・5日目には、1つか2つに減ってしまった。
夜、酒を飲むと酔っ払ってしまい、ついうっかりして、私が部屋にしまうのを忘れるのだ。 ある朝、私がいつもの通り寝坊をして、目をこすりこすり起きた私は飼っている猫が、雪割草の鉢の前にチョコンと座って、口をモガモガさせているのを見た。側へ行くと、くるりと横を向いて、いきなりチョロチョロ逃げ出した。
2・3足で追いついて、捕まえて口を両手で開かせると、いつも悪い物を口に入れて発見された時にする様に、口を大きく開いて見せた。すると上下の歯に、雪割草の赤い花片がくっついている。紛失事件の鍵は極めて容易に見つかった。
家の飼い猫が毎朝、おめざに一つずつ食っていたのであった。
 私が心配しつつ大事にしていた鉢の雪割草は、この小さな生き物――美食家なのかも知れない――の為に、ついに一つも咲かずに終わったのたった。だが、こんな騒ぎをしているうちに庭に植えた分はみんな、スクスクと健全な発育をして、毎日、次から次へと新しい花を咲かせている。
              (了)

2019/05/11(土) ビストロバルス
                  雪割草 1

 もう一か月ほど前から、庭の日当りのいい一角で、雪割草が可憐な花を咲かせている。
白い色、赤い色、それぞれが元気よく暖かい日の光を受けると頭をもたげ、雪など降るといかにもしょげた様に縮み上がる。この間、四つんばいになって匂いを嗅いで見たら、微かな芳香を感じた。
蝶もアブもいないのに、こんなに花を咲かせてどうするつもりなのか、見当もつかないがあるいは神の摂理というものが作用して、これでも完全に実を結ぶのかも知れない。
福寿草と共に、お正月の花の様に言われるが、自然のままでは、東京の3月に咲くらしい。
 去年の11月、私はわずかな暇を見つけ、裏日本・信州へ遊びに行った。すっかり黄色くなった落葉や松林、ヨブスマの赤い実、山で焼いて食べた小鳥の味、澄んだ空気と、それからすっかり雪をいただいたアルプス・槍連峰……
 帰って来てからも、しばらくは仕事に手がつかなかった。万事が、灰色で、汚なくて、煩話しかった。
これは山の好きな人なら、誰もが経験する気持ちだと思う。この様な気持ちでいたある日、夕方五時半頃に勤め先の会社を出ると、空はすっかり曇って、なんとも言えぬ暗い、陰湿な風が吹いている。
 ますます嫌な気持ちになってしまった。そこで、偶然一緒になった同僚のN君と、一軒の居酒屋へ入り酒を飲んだ。で、いささか元気がついて、横浜駅の方へ歩いて行くと、花屋の店頭で見つけたのが『加賀の白山雪割草、定価500円』500円と書いてあるが、単位が書いてないから、一株500円なのか、一束500円なのか分らない。
とにかく500円出すと、若い店員さんが大分たくさん分けてくれた。新聞紙で根を包み、大切にして持って帰った。
 あくる日は、麗かに晴れて風もなく、悠々と草や木を植えるには持ってこいの陽気だった。私は新聞紙を開き、更に根を結んであった麦わらを取り去って、数十本の雪割草を地面に並べた。見ると蕾に著しい大小があった。今にも咲きそうなのが5、6本ある。 そこで私はこの、今にも咲き出しそうなのを鉢に植えて、部屋の中で育てようと思った。そしたら、年内に咲くかも知れない。
 私の家は南に面して建っているので、日光さえ当たっていれば、温室のように暖かい部屋なのである。
私は去年朝顔を植えていた鉢を持ち出して、まず丁寧に外側を洗った。次にこの鉢を持って裏の畑へ行き、最も豊饒らしい土を一鉢分失敬した。
だが、いくら豊饒でも、畑の土には石や枯れ葉が混ざっている。それをいちいち取り除いて、さていざ植えるとなると、なかなか面倒くさい。               
            (続)

2019/05/10(金) 海抜
7.9m

2019/05/09(木) ビル建築中
             まぼろしの街 8

 氏はまたある日新宿にかの老人を訊ねて見たが、幾晩氏があの思い出のベンチへ寄ろうとも、ついにその老人を見る事は出来なかった。
 そうして2年の月日が経ったのだが、2年たった夏の始め、氏は思いがけなく例の老人を、歌舞伎座の華やかな特等席に見出したのである。
 海老蔵の芝居が、トントンと気持良く運ばれている内に、不図何かのきっかけで、特等席に眼をやった氏は、そこに、おお、あの不思議な老人と並んで、輝く様に盛装した美女が、使用人でもあろうか、これも美しい若い女に2・3才ばかりの子供を抱かせて、静かに舞台に見入っているのを見たのである。
忘れることの出来ないその面長な顔、瞳、唇、かの老人が、何とモーニングらしい装束で、澄まして、ゆったりと並んでいる事よ! 寺田氏の驚きがどんな物であったか、そもそもかの老人は何人であるのか、今見る老人は明らかにかつての乞食ではない。がこの時、席では老人と彼女は、氏の顔を思い出しでもしたのか、あるいは特別な時間でも来たのか、ちょうどこれも席を立って帰り始めた。
 寺田氏はうち騒ぐ人々の間を転ぶ様に通り抜けて、一度方向を間違えながら、懸命に玄関へと走り出た。走り出るのと、老人と彼女等が自動車に乗るのが一緒だった。
あっと思う間もなく、自動車はつい宵闇へ走り去ってしまったのである。チラと見た運転手の顔に、何か見覚えがある様に思ったが、その時は氏には思い出す事が出来なかった。
しかし氏は、まだ絶望はしなかった。その自動車のナンバーを周囲の明るさでハッキリと読み取ったのだ。
劇場の人々が彼等に対して丁寧な態度や、運転手のそれに対するうやうやしい態度は、彼等が相当に名のある老人、名のある夫人である事を物語っている。あの自動車も彼等の自家用車に違いない。
 後に、自動車のナンバーを調べて、照会して見た所、かの老人が豪邸住まいの名家、七尾医師である事が分った。 
氏はなんらユスリがましい気持ちを持ったわけではなかったが、それを知ると、何か説明しがたい物に惹かれて、氏はある一日、麹町の七尾邸を訪れたのである。そしておお、その愚かな行動が、氏をこれほどの不運な境遇へ導こうとは! 
 老人の話によると、老人は前から適当な青年を物色していたと言う。
「履歴書を見たり、一日中、構えてその青年を試していれば、それが人間としてどれだけ欠点のない男かどうかは分るではありませんか。」
 あの女が歌舞伎へ連れて行った赤ん坊は、何処か通りすがりの好人物そうな青年の子供なのだった。
 七尾夫妻は子供の欲しい一念から、通りすがりに知り合った青年を老人の妻に性的満足を与えつつ子種を宿させた。そしてその後、彼等はその金と権力を持って、その行為を絶対に口外しない代わりに100万円を与え、口外した青年を監視し、殺そうとしたと言った。
老人は、私にそうした話聞かせたのである。
 寺田氏が老人の手配した者に、追い回され殺されそうになったりした挙句、精神的に耐え切れなくなり、遂に自殺したと聞いて私はその話をまざまざと思い出したのだ。                    
                  (了)

2019/05/08(水) 建築中
        まぼろしの街 7

老人は上機嫌で、そんな風に説明した。そして尚、言葉をついで、
「な、これほど立派になったのだから、ここを出たらついでに床屋へ寄って、顔を奇麗にして来るがいい。そしたら俺が、もっともっと面白い事を教えてやるぞ。そして今度のは、上手く行けば相当な金になるかも知れん。いいや金でなんか買えない良い事があるかも知れん。お前さんは人間がしっかりしているから、ひょっとすりゃ、それでまた世の中へ帰れるかも知れないよ。ま、その事はそれでいい、とにかく早く床屋へ行って来る事だ。俺は公園で日向ぼっこでもしているから。」
老人の言う、次の良い事とは何だろう? 寺田氏は、朝からの、いや昨夜からの経験で、もう絶対に老人を信じていた。そしてこの愉快な生活に、今はほとんどの同意さえ持つ様になっていたのだ。 氏は老人に言われた通りに、今朝早く、老人と一緒に盛り場の片隅で拾い集めた小銭を持って、床屋へ行った。
床屋で快い鋏の音を耳近く聞きながら、老人の次の『良い事』を考えていた。
 自分は寝た。そして食った、着た。その上に良い事とは何だろう? 金か、いや老人は金以上の物がと言ったのである。金以上の物」と言えば、おお女、老人は自分に1人の恋人を与えようと言うのでは? 寺田氏は浮き浮きとした気持になって床屋を出、老人の待っていよう公園へ引っ返して行った。
老人は公園のベンチで居眠りをしていたが、さて次の『良い事』のある場所を教えるべく、公園の一箇所の、滑らかな土の上に、石でもって面白い線を引き始めた。「ここが三越だ、いいかい、そしてここが地下鉄の駅、この三越と駅にこう線を引いて、この所から直角に、こうしばらく行くと白いポストのある煙草屋の前に出る。うん、ペンキが剥げて白くなっているんだ。
この煙草屋の右に路地があるからな、この路地をこう行くと、右側の家を数えて、1軒2軒3軒4軒5軒目の所で道がこう二つに分れている。これを左に行っちゃいけない。ここからは一本道だから、ここを右へ右へと行く。
すると14、15分歩いた所で黒い板塀に突き当たるから、構わずその板塀を向こうへ押し開けばいい。いいな。するとこんな恰好の狭い静かな通りへ出るから、いいかい、愈々この通りへ出たら、出来るだけ静かに小さく口笛を吹いて、こちらからこちらへゆっくり歩くんだ。うんそれだけでいい。そうやっていればきっと良い事が起こる。決してビクビクしちゃいけない。どこまでも元気に、そしてどこまでも太っ腹で、まあとにかく行って見るんだな。
何もなかったらまた新宿へ帰って来るさ。俺は大抵あの時間にはあのベンチに行っているからな。」
 老人の言葉には何か力といったものが感じられた。その結果がいかなるものとも予想さえつかなかったが、尚しばらく右の冒険について老人と問答を交した末、寺田氏は勇敢にもその地図にない町を目指して行く事に決心をしたのだった。
・・・・・・・・・・・ 
そんな風にして、この奇怪な一週間は終わったのだが、彼のした事が罪であるか男らしくない事とであるかは知らない、とにかく寺田氏は老人に言われた事を成し遂げ、充分2ヶ月は生活出来る金を懐にしたのである。
 が、この物語はこれで終わったのではない。
小さな事件とはい言え、行動し、そうして寺田氏がやがてつつましいながら新しい生活が始まったのであるが、1月たって思いかねた氏がその不思議な町へ行って見た時には、そうした一区画こそありはしたが、隣家でその由を訊ねて見ても、そうした人のいるという事さえ、全く知る事が出来なかったのである。                
                (続)

2019/05/07(火) ABC
            まぼろしの街 6

「どうだい、罪だと思うかね、俺達がこんな風に生活している事を?」
 その門から数100m離れた所で、やはり歩きながら老人が言った。そして今は幾分老人に安心した寺田氏が、それに対して少しの意見を述べのに反応して、
「勿論罪は罪だろう、が、こんな罪は決して他の労働者に迷惑をかけたり、また監督の腹を痛めたりはしやしない、全く周囲に交渉のない罪なら、社会的にはそれは少しも罪ではないからな。」 
と老人は、なかなか変わった意見を吐くのである。そして老人自身はその罪でない事を信じている旨を話し、2・3、こうした罪でない罪の甚だ老人にとって有益である例を挙げた後に
「面白いと思うなら、これからある場所へ行って、お前さんの服装をもっと立派なものに変えて見ようじゃないか。
一円もいらないとも、勿論。俺だって今少し若ければ、色気というものがあるから、多少こざっぱりしたなりをしてるんだが、この年ではこの方が気楽だからな。」
と、これまた興味のある相談だった。 寺田氏はその時、老人の持っている主義と言うか哲学と言うか、そんな物から、自分の今日までを照らし合わして、なかば肯定的な物を感じたとの事だった。
 今はこうした不思議な生活の、その罪であるかどうかと言う様な問題よりは、これから直面しようとする服装の冒険に、言い知れぬ興味と勇気を覚えたのである。
「勿論あなたの事ですから、危い事はないんでしょうね?」
「ああ勿論、誰だって文句をいう者は1人もない。あったところで決して罪にはならない。まあいいお天気だから、ブラブラ行く事にしよう。」 
そして寺田氏と老人とは、服装に似合わない都市道路論などを戦わしながら、今は昼近い町の巷を、悠々と歩いて行ったのである。
「さあ、この辺でしばらくブラブラしていれば、そのうちに誰かが着物を持って来てくれるはずだ。」
 そこは新宿中央公園の、裏にあたる木立の中だった。老人はそう呟いて傍のベンチに腰を下ろした。昼近い時間の淡い日影が、それでも木の間を通して地上に細かな隈くまを織り出していた。
寺田氏は同じく老人の横に腰を下ろして、何故この辺を、そんな物好きな人が着物を持って来てくれるのかと、その事を老人に訊ねようとした。 
と、その時である。何か慌ただしい気配が二人の背後に起こったと思うと、
「おい!」 ガサガサ! と木立から音がして、二人の目の前に不思議な人間が現われたのである。しかも、その手には抜き放たれた短刀が光って見えた。
「頼むから君の服をくれ、代わりに僕のこれを――嫌いやなら嫌といえ、さあ早くだ!」 
その男はいかにもチンピラと言った様子をしていた。三十前後の眼尻の切れ上った、一癖あり気な面魂いである。後から誰かに追いかけられてでもいる態度で、もう一度、
「早くしろ、頼む」 
と短刀を持たない左の手で、余りの驚きに呆然としている氏を拝むようにした。
「早く、早くしろ!」 
 我に還った氏は仕方なく服を脱いだ。1着の背広は売ってしまって、今は垢と油でヨレヨレになっているもう1着の背広の上下を。それから形の崩れた黒の皮靴を。男は氏の脱いで行く端から、その服を器用に着た。
そして着たかと見る間に、もう木立の彼方に去って行った。
 止むなく男の残していった服を着て、キチンとボタンを締めた氏は、直後に、背後から駈けつけた私服の刑事に肩先を掴まれたのである。が刑事は、件の男の顔を知っていたに違いない。氏が今短刀で脅迫された事をオドオドと話すと、
「よし、そして奴はどっちへ行った? そうか、では君は後から××署へ来い、参考人だぞ!」
と大型の名刺を投げる様にして、そのままこれも木立の彼方へ駈けて行ってしまった。
 まるで夢のようなひと時だった。この出来事はしばらくの間、やがて老人が説明してくれるまで、寺田氏にはどうしても事実として信じられなかったそうである。 服装が変わってしまった。氏は今立派な青年となった。
ああなんと言う老人の言葉だろう、知恵であろう! 寺田氏の驚きを、老人は相変わらずハッハと笑った。そして言った。
「な、すっかり変わったじゃないか。これでも少し顔の手入れをすれば、どこへ出しても恥ずかしくない若い者だ。お祝いに昼飯はレストランにでもするかな。」
「いや、なあに都会の事情に少し通じてくれば、こんな事はわけはないんだ。俺は今朝、あの別荘で、隣りの奴等が話をしているのをちょいと耳に挟んだのだが、何でも麹町のさる所で、ある事件が起こったと言うんだ。強盗なんだが、あんな所で奴等が話しているくらいだから、その犯人がどんな人間かは大体想像がつく。俺みたいな人間には、その犯人というのがどこにしばらく隠れていて、それからどの路を何処へ逃げると言う事はすぐに分かるんだ。で私服に追いかけられるならあの辺だと思ったから、まあお前さんを引っ張って行って見た、とこういったわけさ。
奴あすぐに着物を代えてズラカロウってんだからな、なあに行く必要なんかあるものか、広い東京で二度と再びあの刑事に出合う事はありはしない。警察へ行けばそれこそ折角の着物を取り上げられてしまう。」                                                           (続)


   

2019/05/06(月) 赤帽
            まぼろしの街 5

とそのまま次へ廻ったのだが、見も知らぬ老人の腕前を、何処に打たさぬ先から見抜くパチンコ屋の店員が、老人はそこでも玉を突き付けけられた。が、同じ言葉を繰り返して、老人はたゆまずその4軒を廻ったという。 
ところが面白い事には、その2、3軒目から、もう老人の後には、用のない弥次馬がゾロゾロとくっ付いていて来て、それらが老人が店へ入るたびに、コソコソと、
「ありゃあお前、××の年寄で、パチンコで身代を潰しちゃった人間だよ」とか、
「この人に打たしたら、パチンコ屋が何軒あったってやっては行けねえ。」
とか、そんな風に陰の後援を自然にやってくれて、それが4軒目では、「まあ親方ですか、今日はあいにく混んでおりますから、お粗末ですけれどこれで勘弁を。」と何も言わぬ先から『ハイライト』2・3箱を渡されたと言うのである。
以来老人は煙草が欲しくなれば、頃を見計ってその4軒のどれかのパチンコ屋へ顔を出して、
「打たすかね!」と言っては、ハイライトなりショートピースなりを貰って来るのだと言うのである。
 また小遣い銭が欲しくなると、それが100円や500円の小銭なら、何処にでも盛り場と言う所にはそんな金が落ちてる穴があるそうである。拾得物がどうのこうのとやかましく言えば限りがないが、放っておけば腐ってゆく金を、ただ拾い出して来るのになんの咎があろう、使われてこそ金自身としては本望ではないか、とそんな話をしているのうちに2人は目的の処へ来てしまった。
 ここは、浮浪者相手に炊き出しのボランティアをやっている所だ。「いいか、真っ直ぐに歩いて、並んで、金を払って食うつもりで食うんだぜ。」
老人は一言注意して、寺田氏の先に立って、標札も何もない板塀の門から、堂々と中に入って行った。まだ薄暗いその門へは、法被姿やボロ作業服姿、いずれは労働者と見える連中が、同様に2人3人で連れ立ってやって来ていた。
                  (続)

2019/05/05(日) 鯉のぼり
              まぼろしの街 4

 すると老人が立ち止まった。氏が、今更老人に逆らって見ても始まらないと言った気持ちで、従う旨を表情で示すと、そのままシネマ・J館の角を曲って、しばらく2人は歩いた。
老人に伴われて、氏は暗い幾つかの路地を抜けた。
 やがて二人の達した別荘なる物は、新宿区の一角に相当大きく、そして高くそびえ建っていた。が、取り回した塀も見えず、どこにも明りを見る事は出来なかった。空を区切った黒い影で、氏はその建物の洋館である事だけは理解出来た。
「もう門が閉まってるからな、俺がちょいとおまじないをして来るまで待っているんだ。」
老人は低い声で言って、それから建物の表と覚しい側へ廻って行った。         
 暗い地上に独り立って、氏が再びこの老人の上に色々な想像を巡らしたのは勿論である。だが不思議に、今は老人の言動を、何も疑う気になれなかったと氏は話した。
「さあ、入ったらいい。上手く行った。」
闇の中から声がして、思いもかけぬ氏の面前に穴が開いた。建物の一つの戸が開かれたのだ。
「そこで靴を脱いで、段があるんだから。」 
老人の注意がなかったら、その時氏はすぐ前の上り段に、向こう脛を打ちつけただろう。まるで胸を突く様な狭い廊下だった。廊下を老人について一曲がりすると、ポウッと左手の部屋から明りが漏れていた。八畳の部屋を二つ、ぶち抜いたと覚しい大きな部屋が、廊下との境にドア一つなく、氏の眼の前に現われたのだ。 
 見ると、いるいる、その広い部屋一杯に、たった一つの電灯を浴びて、浮浪者風の者、法被姿のもの、甚だしいのは、南京袋を被った者、いずれも表通りでは見られない様な男達が、およそ40人近くも、一杯いて、い汚くなくそこらにゴロ寝をしているのだ。
「静かにするんだ。そしてほら、あの間へ寝転ぶといい。腹が空いているだろうが、また明日の事だ。寒けりゃこれを被って寝てもいいぞ。」
老人がそれまで己れの身につけていた毛布を貸してくれた。氏にはこの建物が、ホームレス用の新宿区の無料宿泊所であるとは翌日の朝まで分らなかったそうである。
老人の言った別荘の意味は、単なる隠語だったと知ったが、毛布を被ってゴロ寝しながらも、氏は愈々不可解になって来た老人の正体を考えずにはいられなかった。
 おそらくこの老人も、こうして雑魚寝の連中と同一軌の人種に違いない、とその事は考えられたが、尚、氏の頭には、老人の態度その他の、変に紳士的なところが理解出来かねたのである。
「よし、明日になったら聞いてみよう。そして老人の正体によって、これが受けるべきでない恵みならば、潔く受けない事にしよう。」  
多少の余裕を回復した寺田氏は、そう思い詰めた末に、半ば空腹を感じながら、やっと眠りに就いたのだった。
「俺は労働者じゃない、といって乞食とも言えないだろう、勿論職業って物は10年この方忘れてしまった。何しろこれで60の坂はとうに越えているからな。しかし別に働かなくとも食うに事欠くわけではなし、寝るに寒い思いをするではなし、最も汚いと言えば、それは俺が食う物、着る物、寝る所だってあの通り汚いが、なあに物は考ようさ。俺はただ気ままに、食ったり寝たり遊んだり、ご覧の様な工合で面白く生きてると言うまでの事だ。
都会と言うのは実に良く出来ていて、ただ、ロハで何でも言う事を聞いてくれるからな。だから心配しないで、まあ酒が欲しければ酒……ああ酒は駄目なのか、じゃ煙草なら煙草、何でも好きなのを言うがいい、昨日の様に貰って来てやるから。
女が欲しけりゃ女だって・・・・、少し急いで行こう、でないと飯に遅れてしまうから。」
 老人は歩き歩き、そんなことを寺田氏に答えた。昨夜の無料宿泊所を出て、二人はまだ薄暗い歌舞伎町の中心街を歩いているのだ。 急ぎながら、老人は寺田氏に対して、それが驚くべき色々な都会の裏側の事を話してくれた。
たとえば昨夜の煙草である。あれは老人が付近のパチンコ屋へ行って、ただその顔を覗いただけで貰って来たのだと言うのだ。 老人はかつてその4軒だか並んでいるパチンコ屋の1軒1軒を
「よう今晩は」
と入って行った。そして、
「どうだい姐さん、俺に幾らかでも打たすかね?」
と台に半身を泳がして行ったのである。第一のパチンコ屋では
「さあどうぞ」
とあっさり玉を突き付けられてしまった。するとパチンコなんか全然興味のない老人は
「ハッハッハ、姐さんはまだ若いね、そうムキになられるとこっちが打てなくなる。気の毒だからまあこの次にしよう。」           
             (続)

2019/05/04(土) 巨大ふわふわ
              まぼろしの街 3

  この老人はいつの間にこのベンチに来て、寺田氏を観察していたのか、と氏はやはり老人の顔を見詰めたまま黙っていたのである。
「どうだ、食わないか?」 
ハッハッハと老人は笑いながら、それまでモゾモゾやっていた毛布の懐から、一個の新聞紙包みを出して開いた。そして食い残しらしい4・5本のバナナが、急に氏の食欲を呼び覚ました。手を出すのじゃない、手を出すのじゃない、とわずかな理性が思い到りながら職安に多数いた人達の末路を想像させた。
がその時、氏は到底その誘惑には勝つ事が出来なかったと述懐した。「貰ってしまってもいいのか?」 
若い寺田氏はそう言ったつもりだったが、急に覚えた口中のネバネバしさで、それは唇から洩れずに消えてしまった。が、次の瞬間には、理屈も何もなく、氏はもう件の老人と並んで、仲良くそのバナナの皮を剥いていたのだった。
そしてその味のなんと咽喉に柔らかく触れた事だろう!
「煙草はやるのかい?」 
と食い終わったところで老人が訊いた。食後の一服を氏は予想していなかったが、そう問われて見ると、押えがたい喫煙の欲が、冷えた指の先々まで漲って来るのだった。
「おや、もう吸ってしまったかな、確かにまだあったと思ったが、いいや、まだやっているだろう、ちょいと行って貰って来よう。」
氏がまだ答えない内に、毛布の中で手を動かしていた老人は、身体の何処にも煙草がなかったと見えて、そんな事を呟くとそのままベンチを立ち上がった。 
そして老人が煙草を持って帰って来るまで、氏の胸を往来した思いは、過去への呪いでもなければ前途への想像でもなく、今去って行ったその老人は、果たしてどんな種類の人間かという事であったと言う。
 その服装で見れば、いかに土地不案内な寺田氏にも、老人は乞食以外の何者にも見えなかった。しかし乞食と言ってしまうには、その言葉の端々やそれから態度に、何か紳士的な物が感じられる。煙草を貰って来ると言った言葉から考えれば、もしかして老人は人夫請負人で、貰いに行った先はその仲間の家ではないだろうか? もしそうだとすれば自分はこれからどうなるのであろう? 
彼等は一度交渉を持てば、その恐ろしい集団の力で、到底相手を逃さない物と聞いている。だが、それほどの悪人が、己れの商売をするのに、煙草銭さえも持っていないとはどうしたのだろう? 
もし老人が乞食ならば、自分は既にその乞食から一度の食を恵まれたわけである。上京して来てわずかに3月、もう自分は乞食の社会へ一身を落したのではないか、と氏の胸には、そんな淋しい予感ばかりが去来した。
「さあ、ハイライトだが」 と老人が元気に帰って来たのは間もなくだった。 氏はその時の誘惑にも、到底勝つ事は出来なかったと言っている。北海道かそれとも福島県か、何処かへ送られるのなら、何も構わず貰ってやれ、とそんなさもしい気持になったそうだ。 新しいハイライトの袋をプツリと破いて、その一本に火を点けた時の喜び! 
氏は感謝と言う言葉が持つ意味を、その時始めて知ったと思った。
 胸一杯に吸い込んで、それからそろそろと出来るだけ長く、静かに静かに吐き出して、吐き切ったところでしばらく眼を瞑って、氏は空へ出て行く紫の煙の、氏の腹の中からいろんな汚物を拭い去って行く清々しさに陶酔した。
「財布を投げちゃったりして、アブレちゃったのかい?」
 老人は喫茶店のテーブルにでも凭れかかった調子で、ひどく鷹揚な口のきき方をした。氏の胸には朝からの、いや3月この方の苦しさを感じる健康が、次第に回復して来た。苦い苦い都会の経験が、いろんな形で思い出された。 老人の問いに幾分警戒の心は動いた。
後で考えて見ても説明の出来ない気持ちで、その時氏は現在まで全てを老人に話したいと思ったのである。が老人は、氏が秘かに期待していた北海道行き人夫の話は持ち出さなかった。
「じゃ今夜の宿がないってわけだな?」
と同情に満ちた声で言ったのが、聞き終った時の老人の最初の言葉だった。
「だがまあいいやな、若いんだから。そのうち芽の出る時もきっと来るだろうよ、クヨクヨしないでやってるんだな。で今夜は、何なら俺の所へ来てもいいんだが、来るかい? 
なあにお互いだから遠慮も入りはしないが、とにかくここから出る事にしよう。もうお巡りさんの廻って来る時間だ、見つかるとまた五月蝿い。」
お巡りさんと言われて、寺田氏はハッとなったと言う。それまで考えても見なかった淋しさが、潮の様に氏の胸を取り囲んだ。氏は老人に続いて、何を考える暇もなく立ち上がった。そして噴水のわずかだった休息から、今はすっかり暗くなった新宿のアスファルトの道へと出たのである。 道路へ出て2、3歩歩きかけた時、
「そうだ、これから別荘へ行かないか、疲れているんだろう?」              
             (続)

2019/05/03(金) 旗日
          まぼろしの街 2  
   
 首をもたげる気にはなれなかったから、汚い地面ばかりを見て歩いたのだった。
しかしどうかすると氏と並行して、あるいは並行しないで、忙しそうに歩いて行くまたは歩いて来る沢山の人の足が視界に入った。また時には、それ等の足と足の間を通して、通りの向こうの、立ち並んだ家々の脚部が見えた。
人を満載して行くらしい電車の車輪が見えた。そしてその足や車輪や家並みが、氏にそれほどの人の中にも、知人の一人もいない淋しさを感じさせた。
 空腹はもとよりだったが、歩いている内はそれほどでもなかった。が、寝不足に似た厭な気持ちの頭の中では、エプロンを掛けた女の顔だの、飯屋の看板だの、テーブルの上の一本のスプーンだの、味噌汁の色だの、そんな物が絶えずチラチラしていた。
半ばば夢の様にそうして歩いている内、寺田氏はいつか新宿の公園へ来ていた。ペンキの剥げたベンチの一つへ辿り着いたのである。時間は丁度どこも仕事のはねた直後のことで、そこでまだ、楽しげな人々が大勢の塊になって駅のある道へと押し流されていたが、ゾロゾロと遠ざかって行くその足音は、ベンチにくず折れた氏の耳には、まるで埋葬に来た近親者が引き返すのを、埋められた穴の中から聞く様に響いたそうである。
 賑やかさの裏のひとしおの冷たさが、氏の足先を包んで来た。何か甘酸っぱい風が、氏の胸から背の方へと肺臓を抜けて行く様に思えたと言う。 何となしにしばらく眼を瞑ってから、氏はポケットの履歴書を取り出して、これも何気なしにその文字をゆっくりと眺めて見た。
田舎の事がチラと頭を掠めた。しかし氏の連想は、電車賃どころかもはや自分には今どうする金も一文もない、と言うところで豆腐の様にぼやけてしまったのである。
氏は後方めがけて、その履歴書を噴水の方へ放り投げた。続いて辞令を、謄本を、それから空っぽの財布を。           
ベンチの横に立っているお情けの様な街路灯の光が、それ等落ちて行く寺田氏の過去を、ヒラヒラと、幻のように青白く照らしてくれた。どんな過去もどんな履歴も、今の自分には何等必要がないではないか。
「ハッハッハ」
と氏は思い切り笑って見たのである。と、それに調子を合わせたように、
「ハッハッハッ」
としかもすぐ氏の横で誰かが笑った。氏はその時受けた感じを、例えば何か、固い火箸の様な物で向う脛を殴られた様な――到底説明しが難い感じだと言った。
 見ると、同じベンチの反対の端に、一人の男が、ボロ毛布を身体に巻いた老人が、氏の方を見てまだ顔だけ笑っていたのである。
 「どうしたい?」
とやがてその老人から言葉をかけられたが、氏はその時、思いもかけず人のいた驚きで、急に返事をする事は出来なかったと言っている。
「会社員ってつまらないものだな。」 
と重ねてその老人から話しかけて来た時には、氏はかつて聞いた北海道行き人夫の仕事の口の話を考えていた。
そしてこの老人が果たしてそんな恐ろしい人間であるか否かと、その丸い顔を、柔和な眼を、健康そうな表情を、それからガッシリした老人の体格をただ見詰めていた。
「学校の先生ってつまらないな。」
その老人は続いて言った。氏にはまだ言葉を返す事が出来なかった。「財布ってやつもおよそ仕様のないもんだな。」              
                (続)

2019/05/02(木) 令和
                  まぼろしの街 1

 私にこの物語を話して聞かせた寺田と言う人は、聞くところによると、昨年の11月末、ちょうど私がこの話を聞いて帰ったその日の夜7〜8時頃、周囲の人に追い詰められ、精神的に耐え切れなくなって、自ら部屋の柱に頭を打ち突けて死んだのだそうだ。
 8時といえば私を送り出してから、まだ3時間と経っていない時間の出来事である。世間話の内に不図これを伝えてくれた私の知人は、その頃何時にない私の驚きに対して、無論寺田氏の死は自殺であるが、正しくは病死と称すべきで、また既に病死として万事終わっている事を話してくれた。
 が、私はその瞬間、もう彼の病死なるものが、果して真実に病死と称され得るべきかを疑っていた。それは私が氏の生前に聞いたこの物語を思い出したからで、当時、私がこの物語を聞かされた当時は、何分にも場所が場所であり、相手が相手であり、しかも一面識もなかった人から、いわば無理強いに聞かされた形だったので、単に面白いくらいに思い捨てていたわけだが、それが今、氏が自殺したのだと聞いてみると、当時の氏の真剣だった様子や、それからこの物語に、何等論理的間違いのない事などが今更の様に考えられるのである。
 氏は物語の合間合間、自分の正しい事を力説したが、今から考えてみると、その無闇に激昂や他に対する嫌味なまでの罵倒も、皆自殺する前の悲しい叫びとして、私には充分理解出来る気がする。氏はこの物語を、私以前に誰かにも話したかも知れない。
が、物語がひどく私達の常識からかけ離れているのと、それから場所、人に対する内心の事で、おそらく誰にも信じては貰えなかったのだろう。氏としては自殺するより他、道がなかったのに違いない。
 その私でさえもが、当時、物語の面白さについ釣り込まれて、監視された氏の部屋に2時間近くも対座していたにはいたが、何時いかなる傷害を蒙るとも知れない不安から、スワと言えば直ちに逃げ出せる覚悟だけはしていた覚えがある。
 怒りのために殊に鋭く見開かれていた眼や、呪いのために特に激しかった言葉の調子や、それから真剣な男としての態度、時折猫の様に廊下へ気を配る様子などは、確かに私達の氏に対する考えを誤まらせた。
氏は私達同様、この明るいの青空の下で、悠々人間としての権利を主張して良かったのだ!私は氏のためこの物語を発表しようと思う。例えこれが氏の自殺を病死と言う誤まった名称から救う事が出来ないとしても、それが一人でもこの真実を考えて下さる方があれば、地下の氏へは幾分か満足であろうから。
またこの物語に現われた、氏の運命はやがて私達の側面の運命でもあると信じるから。
 恐ろしいこの物語は、30幾歳で死んだ氏の20幾歳の春の、どちらかと言えば可笑しい冒険から始まっている。だが読者は、微笑の陰には常に黒いマスクの潜んでいる事を知ってくれるに違いない。 寺田氏はその時、もう都会に少しの未練をも感じてはいなかったとの事だ。職業案内所という物も、限られた特殊な人々にだけ必要で、それ以外に何の意味を持つ物でないと悟った氏は、一枚の履歴書と学校の辞令と、戸籍謄本とそれから空の財布をポケットに入れて、とにかく前へ前へと足を出した。               
                   (続)

2019/05/01(水) 災害時
避難場所案内板


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