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2019/05/30(木)
南口
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北の地
雪が降って来ると巷の音が静かになる。私はそれを好む。特に夜は雰囲気が良い。窓硝子に静かに止まろうとする粉雪が電灯のほのかな光に煌いて暖炉だけが唄っている。お茶など飲みながら、椅子に凭れて、煤けた天井を眺めていると、いつの間にか夜は更けて行ってしまう。そんな時は心が静まって来て、それがまた好きだ。 遠くない駅を出て行く電車の警笛が、何のこだまもなく遠い感じで消えて行くと、あとは虚ろで、人の心を内側の深い所で孤独に引き寄せる。 北の最果ての地は冬には何か流刑地を思わせる力がある。平素は気が付かないのだが、静けさが支配する暗さの中で、遠い望郷の念が起きる。 言って見ればそれは光線の反射しあう南の国への強い憧れである。 超現実の光と線がのあやなす、深く官能的な絢爛無比な幻の世界へのいざないである。それが強いので自分が呪縛された人間である事を思う。 余りに光線が少なく、余りに薄明が支配する清く澄んだ静謐な周囲に堪えられなくなるのだ。 時に私は汚れ濁った、人の気で蒸れるような場所を求める陰の深い、物の臭いのたなびく場所を求める。人恋しくなったのだ。最北の街は何処も乾いている。陰影は少なく、とても明るい。 その明るさは清く澄み渡り、人気からはずっと遠い。 雲が厚い壁を作って、暗い翳を宿しながら、微かに覗いた青空の澄んだ色は、東京や大阪や九州には見る事の出来ない物だ。 それは神秘に通じ、人を限りなく孤独にし、清潔であるが真空の様に冷酷である。何か宇宙自体を覗かせる様な気がする。 私達の文化は過去には北緯三十度圏の亜熱帯付近の世界に作り出された。そこではそよ吹く風も人の息吹の様だ。もちろん土壌に密着した農業生産以外の所に立った社会など無かったのだから、人々は土地の湿気の中に半ば蕩酔しながら、官能をのみ通す世界を感じていた。 人と自然とは相対していたが対立はしていなかった。 木にも草にも精霊が宿っていた。その精霊から人間の子孫が出て来ても不思議ではなかった。 北緯四十度圏の地帯では自然は人に対立する。人が人らしい環境に生きようとすれば、人は人工的に自然に対して立つ。家一つ建てても、都会一つを作っても全てそうである。自然はひたすらに激しく、明るさは冷たく真空だ。 天国と地獄とがここでは対立する。神秘と汚辱が、清澄と醜悪とが、神と悪魔とが、智恵と肉欲とが、柔和と冷酷とが対立する。 それは、かつての日本には有り得なかった精神の生長の地盤である。 北緯四十度圏の北の地の自然が、本州や九州やと違うだけではない。 自然と人間との関係が違っている事」を感じないではいられない。 つまりそれは二千年の間にアルプスの北側にヨーロッパ文化を育成して行った、あの北緯四十度圏と類似を持った自然である。 そこでは人間は考える葦となって、肉感にまみれて、地上に人工の花を開く。北海道にもそういった人間の野望が生まれても良いのではないかと。 三十度圏の日本に真似てはならない。 新しい官能や感覚の歌、そして新しい実存の歌、新しい思惟の歌、新しい神秘につながる歌は、北海道から生まれる可能性が、大変はっきりしている様に思う。 (了)
◎追記・文をUPするのは終りにします。写真だけに戻します。
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