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2006/11/02(木)
教育
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日本からのニュースを見ていると、中学生の自殺のニュースやら親の虐待事件やら、子供たちを取り巻く環境はもうぼろぼろのようだ。まともに必修科目すら勉強してない高校生もいるそうだし。。昔は、私のような文系の人間でも数3も物理までやって、大学を受験した。物理の試験はほぼ白紙で出したと思う。それでも大学に合格した。5教科を勉強?したのは何かの役に立っているような気がする。現在は「ゆとり教育」だか何だか知らないが、世界史を勉強しない高校生もいると聞いて、その一方で小学校から英語教育なんて馬鹿じゃなかろうか、と思ってしまった。世界史を勉強して、日本や日本人が世界の中でどういう位置にあったのか客観的に見る眼を養わずして、英語教育なんぞしても意味がないではないか。要するに、すべての教科を総合的に演繹的に見ようとする視点もコンセプトもないのである。携帯電話大好きの「点おつむ」が興隆しているということだろう。加えて、官僚が霞ヶ関のビルの中で頭でっかちに考えることと、日々の教育現場とは大きくかけ離れてしまってもいるようだ。思春期の娘のことを思うと、自殺した中学生たちのことも人ごととは思えない。教育をもう一度考えなおしたいと思って、もう10年も前、娘が11歳だったときに書いた学校教育に関する文章をアップすることにした。打ち直しながら、あの頃は、まだまだ娘の行く末におぼろげな淡い夢をもっていたことを思いだした。娘が通る思春期のことなど、あのころは想像もつかなかった。わかっていたら、私ももっと違った態度で娘に接してやれたろうに。。かわいそうなことをした。時間は残酷なものである。あと戻りできない。すぎた時間は戻ってこない。ただただ今はもう、娘が自分の将来を切り開いていく力を身につけ、前途が幸せなものであることを願うのみ。。どんなに苦しくても、若い人は絶対に死んではならぬ。
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