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2006/12/22(金)
移民とは
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来年の学会で、ジュン・フジタのことを発表すると決まってから、気持ちがどっかで混乱して、しばらく何もする気にならなくなった。実は、発表といっても、研究者として発表するわけではないのである。やっぱ、やめといたほうがよかったかな、とも思うけれど、学会で発表といった具合にメリハリをつけなければ、結局何もしそうにもないので、それはそれでよかったとは思うのだが。。。研究者の友人が言うに、フジタは移民ではないという。少なくとも、日本の研究者が喜ぶ題材ではない、面白くない、という。なぜなら、彼は中産もしくは上流階級出身の人間だろうから。フジタさんの日本での出身階級は今のところ知るすべがないが、1930年代に月1000ドルも稼いでいれば、いわゆる労働者階級としてその日暮らしをしていたわけではないことは確かである。で、友人いわく、学者が面白く思うのは、労働者階級の移民だとか。要するに、異国でサバイバルに四苦八苦している姿が研究に値する題材とか。。そうなんだろうか。そういう視点ってどっかうそ臭いものを感じてしまう。。そういう研究態度には何かが欠けている。それが何か。。友人は、ジュン・フジタを調べるとして、「だから何なのよ」という聞き手からの問いに答えられるものがなければならないという。ジュン・フジタ、so what? 移民とは、永井荷風が「アメリカ物語」で描いたような、棄民的”哀れな労働者”だけをさすのだろうか。否、である。「移民」の定義として無意識に合意されているかのような、日本人がもっている、日本を離れた人間に対するヒエラルキー意識の表出をなんとかして打ち破りたい。問題意識として表現したい。海外で、サバイバルのために日本人同士群れねばならない人間だけが移民ではない。といって、日本で書かれた移民史の本を読むと、群れて生活し、現地の習慣を身につけなかった人間を非難もしている。その一方、現地と同化し、フジタジュンみたいに成功した人間は、移民じゃないとは。移民って何?
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