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2007/11/11(日)
結婚式
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久しぶりに結婚式に出た。配偶者の20代の友達のである。宗教色のまったくない、自然・ガーデンニング関係の建物の庭で行われた。一応牧師らしい立会い人?が、出席者が見守る中、壇上に立った新郎新婦に読み上げた文言の中に、相手が助けを必要としているときは助けるが、助けが必要でないときはstep asideー日本語で、邪魔をしないように横にのく? −するか、という言葉があったので、思わず笑ってしまった。その通りである。相手をコントロールしようとばかり、いつも相手にくっつき、うるさく言うようになる閉塞的な関係は健康的ではない。聖書にのっとって、永遠の愛とやらも誓わない、ーそういえば愛なんて言葉は一度も使われなかったなあー式で、すごくよかった。(笑)庭だから、鳥は飛んできて鳴いているし、塀に這った緑の中では小動物が動いめいているという気持ちのいい式で、エミが結婚するなら、こういう庭での式がいいなあ、と思ったほどだった。なんで、日本人はクリスチャンでもないのに、高いお金を払って、教会とやらでしたがるのだろう。人工的で馬鹿な話だ。それにしても、出席者の様子を見ながら、結婚式って、ほんとに喜んでいるのは当の二人と親だけだろうな、と思った。二人の関係が最高潮?に達したシンボルの儀式を、白髪のおっさんたちは、退屈そうに下を見ているだけである。結婚とはどんなものか、よく知っている彼らは、別に心からお祝いしたいと思っているかどうか。。でもまあ、たまにあるおめでたいことには違いないから、文句を言う必要もない、まあ結婚式なんて、飲んで騒ぐための体裁のいい言い訳みたいなもんなんだろうな、と考えながら、私は出席者の様子を見ていた。あとで、花嫁の母親とちょっと話をしたが、彼女は彼女で、親なんて小切手を切るだけ、子供の好きにさせたよ、茶色のチョコレートのウエディングケーキなんて、見たことなかったけど、別に反対する理由もないしね、多佳子にもいつか必ずこの日が来るよ、とか言われて、そうだなあ、その時は大粒の涙を流すだろうな、とか想像した。子供が小さいときはそれなりに一生懸命育てて、なんとか親離れさせて、一人前に仕事ができるよう教育を受けさせ、独立させて、そしてやっと無事に人生の伴侶が見つかれば、その出初式にできるだけのお金をぽんと出してやって、それで親の役目を終えるのである。結婚が何年続こうが、離婚しようが、もう知ったことじゃないよ。それでも、やっぱり親は心配し続けるだろうなあ。あああ。。。なんで人は生まれてくるの?? 結婚して、子供が生まれて、苦労して、心配するために生まれてくるの??? どこかおかしな循環だ。その循環を断ち切りたいと思ったとき、人は死を選ぶのかなあ。。結婚ー紙切れ一枚の制度でもって、男女の関係が守られ、そしておかしな循環が正当化されるようになるもの。。結論ーそんなおかしな”循環”のために、ウエディングドレスにお金をかけるのはばかげているなあ。貸衣装屋に着られるドレスが一着しかなかった私の人生と結婚も、それなりに意味のあるものなのかも。。
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