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2007/12/11(火)
アメリカに切り込むということ
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つい最近、日本人が作った戦争映画を見てきた。特攻隊という特殊なテーマである。映画の中で、日本人が英語を話す仕立てになっている。見終わって、映画の出来をいろいろ言うよりは、ああ、大変だなあ、という気持ちのほうが先にたった。自分が、本の英訳プロジェクトをもっているからである。アメリカ人にわかるように、共感を呼ぶように、仕事をするということがどんなにむずかしく、大変かを改めて思い知らされた。オリジナルが日本語だから、それを単に英語にすればいいというものではない。映画の難点のひとつは、それだろう。日本語の「点の論理」が、そのまま英語になってるような感じがした。これでは、アメリカ人にはわからない。たとえ、英語がネイティブと同じであっても。。言葉のレトリックに通じていなければ、意味は理解されない。その上に映画の英語は、あとでプロの通訳者が、あの映画は、下を見てたらわからないね、という代物だった。下を見るとは、字幕に出ていた日本語を読まなければ、という意味である。アメリカ人の観客向けに、日本人俳優が英語をしゃべる仕立てにしたのだろうけれど、アクセントがあると、アクセントに慣れるまでに時間がかかる。中には、アクセントに慣れるだけの忍耐心をもたない人間もいるだろう。(このあたりは、私自身が職場でいやというほど経験している)太平洋戦争というむずかしいテーマを、アメリカにぶつけようとしたことについては、ほんとうに尊敬の念を覚えるけれど、やっぱりこの出来ではな、と思ってしまった。(悲)そう思うと、クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」のように、全編日本語でぶつけたというのはすごいことだ。とにもかくにも、アメリカで勝負するというのは大変なことだ。というわけで、私の本の英訳も、自分ではできないから、まず、一応プロの日本人の人に日本語から英訳してもらって、でもこの英語は、ネイティブの英語からはほど遠いらしいーこのあたりは、私にはほとんどわからず、ただ本の内容通りに訳してほしかったから、まあ、生木の英語でもいいか、と思っていた、で、第二ステップは、ネイティブのプロに、日本人の英語を本物の英語にしてもらうエディットである。で、第三ステップが、今度はレトリックのチェックである。つまり、たとえ文章が英語として成り立っても、それが文脈の中で意味ある文として成立するためには、点の論理であってはならないからである。英語群を英語のレトリックに直して、やっとアメリカ人に通じる英文、英語の世界になる。あの映画の監督はそこまでやったかな。。やってないなあ。。で、結局は、日本人相手に、日本人村で、映画館を借り切ったようにして上映するだけになる。何のための映画だったの?? 考えようによっては、毎日身を張って、太平洋戦争の結果を引き受けて生きている人間に対して、あの映画を見せられることは、もしかしたらそれは、日本に住んでいる人たちの傲慢かもしれないし、私たちに対する侮辱かも知れない、と思ってみたりする。いやいや、監督はそこまで考えていなかったろう。ただ英語でやれば、アメリカで通じるとか思ったのだろう。甘い。。
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