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2007/09/16(日)
となりのおじさんと私の違い
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秋になって、どことなくもの寂しくなってきた。でも、外に出ているのが気持ちいい。となりの造園業のおじさんも、珍しくデッキに出て、椅子に腰掛け、ぼおと空を仰ぎ、自分の庭に立てた星条旗が秋風にはためくのをきもちよさそうに眺めている。きっと一種の達成感にひたってるのだろうな。う〜〜ん、すべて自分が計算したとおりになっていると。。おじさんの庭のありようと自分のやってることを比べてみて、決定的な違いをこのごろ感じている。おじさんの庭は、最初に花壇ーつまり枠組みーを作ってしまい、あとはそこに植えるだけだ。結果は、予定調和みたいな安心感を生むのだろう。それが、星条旗を眺めているおじさんの後ろ姿に浮かんでいるような気がした。私は花壇を作らない。好きなものをあっちやこっちに植えて、その成長ぶりによって、花壇?を随時作っていく。今朝は、きのうまで通路になっていた場所を通行止めにした。お気に入りのもみじが枝を伸ばしてきているので、そのそばを頻繁に通って、枝ぶりの邪魔をするのはかわいそうに思ったからだ。通行止めにして、思いっきり美しい枝を伸ばしてほしいと思ったのだ。前は通れるようにしていたところを通行止めにすると、庭全体の感じがまた変わってくる。だから、またごそごそと、あっちの草をこっちに植え替えたりと忙しくなる。毎日、どれだけの陽があたって、どっちから風が吹いてくるかは、そこにじっといる植物だけが体感していることだ。だから、成長の具合ーどっちの枝が伸びやすいかーみたいなのは彼らからのメッセージだと思う。かれらの声にあわせて、庭を変えていくのは当然のことだと思う。隣のおじさんは、自分が作った花壇に合わせて植物を切ったり貼ったりして、自分ーつまり人間ーがいいと考える調和を”作る”のだと思う。私とまったく反対である。私に達成感はない。生き物はいつも動き続け、風景は変わり続ける。変化の一瞬一瞬に”調和”があると思う。これって、高邁かつ抽象的な理想を掲げて、その自分が作った理想にあわせて、周りを変えようとするーたとえばイラクに民主主義を??−アメリカという国の傲慢さにつながってはいないだろうか。私とは正反対の、人工的自然支配を職業にする西洋造園業のおじさんが、ご満悦の様子で星条旗なんぞ眺めているものだから、ついつい考えてしまった。ちょっと飛躍してるかも知れないけれど、案外的はずれでもないような気もするんだけれど。。
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