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2008/06/03(火)
行きところがなくなったら(笑)
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きのう、出勤と帰路と両方を歩いたのはよかったけど(それほど苦痛ではなし。行きは40分、帰りは30分で歩けた。やはり出勤は、精神的要素により時間がかかるのでは。。笑)家に帰りついて気がついた。家の鍵をもって出るのを忘れたのである。鍵は車の鍵といっしょになってるから、車に乗らないとは鍵をそのまま家の中において出てしまったのだった。窓かドアのどこかがあいてないかな、とか思って探したが、どこもがちっと閉まっている。くそっ、仕方ないから、家の前においてあるベンチで横になって、家人が帰ってくるのを待つことにした。最初は、日米の違いを考えた。人は、こういうときのために携帯があるんだぞ、とかなんとか言いたがるかも知れないけれど、携帯のない時代に家に入れない、ということもあったのである。携帯電話がなくても生きていけねばならぬ、というわけで、日本ならどうするか、を考えていた。思えば、日本なら、ちょっと歩けば、コンビ二やら喫茶店があるから、時間つぶしが簡単にできる。これは、携帯の有無に関係なしである。アメリカはできない。ああ、不便だ。携帯がないから不便なのではない。やはり車がなければ、何もできないのが不便なのである。職場との往復を歩いて、また30分も40分も歩いて、ガソリンスタンドまで何か食べ物を買いに行く元気はなかった。じっと横になりながら、鳥の声を聞き、近所で遊んでいる子供たちの声を聞きしていると、こういう気分もいいもんだな、という気がしてきた。近所の家は何事もないようにして建っているけれど、あの家の中ではいろいろちゃんちゃんばらばらしているのである。それが人の生活というものである。家やら家族やら、絆といえば聞こえがいいけれど、しょせんくびきである。ああ、そんなうっとおしいものから離れて、こんな風にじっと空をぼおっとながめている生活もいいな、と思いはじめた。そのうち、おなかがすいてきた。私はお昼ご飯抜きで、仕事に出かけるから(11時出勤である)、しばらくすると、おなかがすいてきたのである。で、次にホームレスの気分を想像しはじめた。そして、いつだったか、新宿かどこかで餓死した母親と息子の話を思いだした。人さまに助けを請うぐらいなら、死ぬほうを選ぶ、という明治女性の気骨である。それがすごく印象的で、よし、私もこういう生き様を選ぶぞ、と思ったのを覚えている。その次に浮かんできたのが、少年たちに殺されたホームレスのことである。その人も襲われたとき、こんな感じで横になっていたのだろうか、死ぬのもよかったかも、とか不遜なことを思いはじめた。で、だいぶ前に死んだ知人が最後のほうは、起き上がれなくなって、いつも寝ているようだった、と聞いた話を思いだした。死とは、無意識にやってくるものらしい。死を意識することはない。ああ、それなら、こうやって、おなかもすいてるけれど、鳥の声を聞きながら、今満開のライラックの強烈な匂いをかぎながら、死ぬのがいいなあ、と思いながら、目をつぶっていたら、急に窓から猫の声が聞こえてきた。どうやら家人が帰ってきたらしい。呼び鈴を鳴らす。結局2時間、ベンチで横になっていた。ああ、ホームレスもいい。いつか人生に失敗したら、堂々とシカゴのホームレスになって死んでやる。。。(笑) 家人は、私がいやに平然としていることに驚いていた。。(笑)極楽?を味わってたんだよ。。(笑)
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