|
2010/07/03(土)
言葉
|
|
|
このところ、宮崎が日本のテレビでとりあげられることが多い。家畜の病気とか大雨とか。。宮崎と聞くと、ああ、父親のふるさとだな、と言葉の定義で処理していた。なんとかというタレント出身の知事が出てきてしゃべっても、何も感じなかった。ところが、である。あるとき、テレビのクルーが、地元の人にマイクを向けた。そして、その人が自然にしゃべったとき、突然、長い長いあいだ思いだしたことがなかった、忘れていた父親の電話口での声が聞こえてきた。イントネーションである。テレビに映った人のイントネーションが、神戸育ちの私がもっていない、父親のそれとまったく同じだったのである。18才で宮崎を離れたと聞いた父親だったが、あのイントネーションが、それも電話口だけで現われるあのイントネーションが消えることはなかった。神戸人間とはわずかに違う、一文の中の最後の二言、3言だけほどに現われる、あの独特のイントネーションを再び聞いたその瞬間、目がうるんできた。消そうにも絶対に消えることのない身体の記憶がよみがえったのである。あの一瞬にだけ、父親が再び目の前にいるように感じられた。身体の記憶って、すごいものだ。人生を作っているのは、身体の記憶だけなのだとあらためて思う。それが、今度の原稿のテーマでもある。証拠をあらためてつきつけられたようで、がんばらねば。。
|
|
|