〜ing〜アメリカつれづれ日記
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2011年10月
前の月 次の月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新の絵日記ダイジェスト
2024/04/14 4ケ月
2024/04/12 雑感
2024/04/08 いよいよ
2024/04/07 宇宙のエネルギー
2024/04/06 なんとなく

直接移動: 20244 3 2 1 月  202312 11 10 9 8 7 6 5 4 3 1 月  202212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  202112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  202012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201412 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201312 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 月 

2011/10/18(火) モニカーサウスダコタ
やっと”癒し”の時間が訪れたんだと思う。ダコタを離れたのが1999年だから、もう12年以上が経ったんだと思うと感無量である。ノースダコタにあるインディアンカレッジからメールが送られてきた。ABCテレビが、なんとパインリッジ居留地のインディアンの人々の番組を放送するというではないか。そのニュースを知ってから、なんとケーブルテレビにお金を払って、ローカル番組が見られるようにするという気合の入れようである。(笑)これで、やっとシカゴのニュースも見られるようになった。見たいか、と聞かれればノーである。あえて見る時間があるのか、と聞かれても、答えはノーである。でもまあ、ぼお〜〜〜と時間つぶしがしたいときがあれば見られるという選択の余地が自由があるということである。自由とはお金のパワーだ!!!(笑怒)とにもかくにも、そうやって力を入れて、楽しみに番組を待ち、見た。涙が出てきてしまった。パインリッジは私が足しげく通って、本を書いたときから、あんまり状況が変わっているようには見受けられなかった。親のアルコール依存症で苦しむのはいつも子供たちである。ネブラスカとのボーダータウンは、あいかわらず、バーを含めて4軒しか店がないのに、年間400万本のアルコールを売る。客はインディアンたちだ。道端によっぱらってねっころがってしまっているインディアンの男たちが次々に映し出された。ステレオタイプの助長だとの批判もあるかもしれないが、それが緩和されているのは、親を乗り越えて、新しく道を切り開こうとしている若者たち、子供たちの姿を映しているからである。タイトルはyoung warriors. そうだ、アメリカで生きるとは、戦い続けるしかないのである。番組を見て、エネルギーをもらった。職場闘争の最後の山場?で、インディアンジュエリーをじゃらじゃらつけて出ていったことを思いだした。やっぱり、ダコタで暮らしたことは決して無駄にはなっていない。人生に無駄はないのである。そのことを実感した勢いで、20年前に初めてパインリッジを訪れたときに、友達になったモニカに電話した。イリノイに移ってから、2、3年、クリスマスカードの交歓をしたが、いつのまにやら途切れてしまっていた。昔の勤め先に電話すると、新しい勤務先を教えてくれた。狭い居留地の人間関係のこと、みんながみんなを知っているが、白人の田舎町と違うのは、日本人もインディアンも白人にすれば異人種、異宗教の人間だから、どこか白人とは違う感覚を、無言のまま共有して、お互いどこか安心できるのである。もちろんモニカは、私の声を聞いて、たかこ〜〜〜〜と叫んだ(笑)モニカは、もう3人の孫がいる”おばあちゃん”になっていた。ダコタを離れたとき、生まれたばかりの赤ちゃんだった娘は13歳。学校でいい成績を収めているとうれしそうに話してくれた。よかった。。話をしていると、いっしょにバッドランドで化石ハンティングをしたこと、エミがこわごわ馬に乗せてもらったこと、インディアンドールのつくりかたを教えてもらったこと、牛に変な形のバケツでえさをやったこと。。いろんなことを思いだした。。モニカはモニカで、このあいだインディアンチャーチの前を通って、たかこのことを思いだしたという。勇気あったよね、とモニカがげらげら笑いながら言った。モニカは、チャーチ反対派である。私は、友達に連れていってもらって、チャーチで、ペヨテというインディアンだけに使用が許されている麻薬?を食べた。あのとき、式を取り仕切っていた、鋭い目のチャーチのマスターも、もう亡くなったという。テレビ番組では、パインリッジで必ず入ったサブウェーの店が映っていた。相変わらず店はあそこしかなさそうである。(悲)居留地でのあの時間は本物だったと思う。もう一度、近いうちに戻りたいものだ。もしかしたら、私がほんとにアメリカで生きていく力を得たのは、あの居留地での時間だったかも知れないから。。居留地の学校の様子を見ていて、ふと思った、退職したら、年に何カ月は、パインリッジの学校で、先生の手助けのボランティアをするのはどうだろう。教えられないけど、丸つけぐらいはできるだろう。(笑)抹殺がもくろまれたけれど、生き残ってきたインディアンたちからもらうエネルギーに、何か”恩返し”がしたいと思うのである。12年前、自分の行く末にしか興味がなかったあのころから考えると、私も年をとったということだ。(悲)


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.