|
2013/01/19(土)
死神たち
|
|
|
友だちは、そこは死神横丁だね、と言って笑った。母が逝って1ケ月、東隣のおじさんは、去年の4月亡くなったおばさんを追うようにして、1月2日に亡くなったとか。西隣の老老介護のおじさんのところには、去年は特養ホームのデイサービスの車が来ていたが、このごろは病院からデイサービスの車が来ている。おばさんもそんなに長くはなかろう。おばさんがいなくなったら、おじさんはあとを追うようにして逝くのではないか。私が今度ここに戻ってきたときには、また風景が変わっているかもしれぬ。二日ほど前には、とうとう誰かが最寄駅で人身事故をやった。一晩のうちに、3度も4度も救急車のサイレンを聞く。空港までの宅急便の荷物をとりに来てくれた人は、近所の酒屋のお兄さん。私がいたころ、よく働いていたお父さんは数年前に亡くなり、お母さんは、震災のときにクモ膜下で倒れて、一度も意識を取り戻すことなく10年寝たきりのままで亡くなったとか。いろんな人生があるー母は、ベッドで、はっきりと「幸せやった」と言ってくれた。それ以上、何を望もう。母が逝ったあと、1ケ月をこの家で過ごして、母の気持ちが少し見えてきたような気がする。54年を過ごしたこの家は、母にとって城だったのだ。私の子供時代、父親のことー私が後ろに投げ捨てたかったすべてが、この家に詰まっている。それが、彼女を支えたのだ。ホームのベッドで、何度も「戻るの」「戻ろか」と、家に帰ることを望み続けた。その一方で、帰れないことも自覚していた。母親でも、寂しくなると、すぐに息子や娘に、うるさいほど電話してくる人がいるらしい。母からは、父の死以外に電話がかかってくることはなかった。寂しいときはあっても、ここでの時間に満足していたのではないのか。ここが彼女の人生だった。すべてをなげうって、アメリカに来て、私と住むことなど考えられなかったに違いない。私はそっけなくではあったが、毎日電話をかけて、私がいることを知らせ続けた。だから、1年に一度会うか会わぬかもで、会ったときに、久しぶりという気持ちはまったくわかなかった。毎日声を聞いていたからである。これでよかったのだ、と心の底から思えるようになった今に、感謝である。今日は、納骨の日である。どんなに帰りたがっても、連れて帰れなかったことを申し訳なく思うけれど、お母ちゃん、どうしても帰りたかったら、帰ろ、でも心臓がとまるかも、といえば、いやや、とはっきり言った母。家より生きることを選んだ母。今日、お骨がこの家を離れる。初めて箱をあけ、骨壺をあけ、母の最期の姿を見た。黄緑がかった部分もある骨がはいっていた。これが見納めである。ありがとう。私は、この家にしみついている父の、そしてこの家を守りつづけたあなたの美学を吸い込みに、またこの家に戻ってきます。ーーー母のお骨が消えた家ー再び寂しさ、喪失感が押し寄せる。思い切らねば、とは思うけれど。。。やっぱりこの家は重たい。。若いときに感じたのと同じだ。。早く出ていかねば、押しつぶされる。。。(悲)
|
|
|