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2013/03/03(日)
母とケロ
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きのうの夜は、まだふらふらしながら、歩いていたのに、というか歩こうとしていたのに、今日は、もう今朝からベッドの中で少しも身体を動かそうとはしない。きのうは、まだ体位が苦しくなったら、身体を動かそうとする意欲があった。地下からもってきたトイレの砂にも座っていた。今日はもうぜんぜん動かない。まるで意識がないかのようだ。が、目はあいていて、一点を凝視している。息があるのは、お腹がゆっくりと動いているからわかる。それでも、朝のうちは、私が声をかけると、口から舌を出して、応答してくれた。今は、私が声をかけても知らん顔である。ただじっと耳をすませている感じだ。でも知っていると思う、私がここにいることを。私も、最後まで見守ってやらねば、と思って、外は青空なのに、じっと家にこもっていることにした。このすべてが、母との最後の時間を思い出させる。ケロに声をかけるたびに、ああ、母にもこうやってかければよかった、と後悔する。母はほとんどいつも目をつぶっていたので、寝ているかと思いきや、ほんとは意識があって、すべてを聞いていたような気がするのだ。私がちょっと部屋から出るときは、ケロに、すぐに戻ってくるからね、と声をかける。母にしたのと同じように。今のケロは、まだふらふら動きたがったきのうに比べると、はるかに平静で落ち着いている感じがする。脳からペインキラーが出て、気分がいいのではないだろうか。そう思うと、意識をなくす直前に見た母の顔を思い出す。目があいていた。私の目を見て、母はすぐに視線をはずしたが、そのときに母の目から受けた私の印象は、なにやら幸せそうだ、だった。あのときも、もしかしたら、母の脳はペインキラーを出していたのかも知れぬ。心静かな最後の時間だったかのも知れぬ。と想像して、今、ケロの様子を見ながらちょっと安心している自分がいる。必死で抵抗しているかのような母の目がとじられるのを見てから、それから母はほぼ1日半生きた。ケロは、兄さんが私のベッドで一晩いっしょに寝て、起きてからまったく動かぬまま、その朝に亡くなったことを思いだすと、もうケロの死戦期も終わりに近づいているに違いない。母が永遠に目を閉じる前のあの数時間、どうして私はずっと母に声をかけ、母の手を握ってやっていなかったのだろう、と後悔している自分がいる。だから、私は今、目はあいてるものの反応のないケロに声をかけ、そっとなでてやる。そして、ここにいるよ、心配しなくてもいいよ、と、私が母に言い続けた言葉をまた繰り返している。(悲)
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