〜ing〜アメリカつれづれ日記
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2013/07/13(土)
脳死移植がはじまるかいなかのころは、死がいろいろと論じられていたようだ。以下は、書き写すことで、自分に刻みこんでおきたい言葉ー「”現象としての死”=死亡は、確かに各私的で、代理不可能だが、死には”関係としての死”=死という側面がある。死亡は個人的かつ時点的だが、死は共同的かつ永続的だ。近代の臨床医学は死を死亡に還元してしまうが、中世までの日常生活では死が当たり前だった。だが今日でも死は、親しき者たちによって共鳴的な死として生きられている。。。」どうやら「死は共鳴する」という本が出版されたころらしい。「死にゆくものだけで死を考え、死を個人の所有権とみる思想を「個人閉塞した死」と名付ける。それに対して、死とは死者と看取る者との、一つの死をともに生きる過程とすることを「共鳴する死」と名付ける。この著者は脳死反対論者らしい。学者はいろいろむずかしいことをいうけれど。。。母の臨終には、母の身体の横に自分の体を横たえ、最後の蚊の鳴くような音(看護師は、これはもう息ではない、とあのとき言った)が消えるのを、自分の耳でしっかりと確認した私としては、「共鳴する死」の意味はよくわかるけれど、しかしそれと同時に、頭の片隅では、母が死戦期にはいった、前日の夜あたりから、死亡を意識していた。この学者は、「共鳴する死」を共同体のもの、と論じているようだが、ここに問題があると思う。視点が錯綜している。個人閉塞の個人は死者自体を意味していようが、死者が死亡を意識することはないのである。あくまでも、死亡は他者のものである。他者にとっては、そのときの意識次第で、死はときに死となり、ときに死亡となる。
ただ一つ、あのとき、私の心にあったのは、母はきっと一人で死ぬことの不安にさいなまれているだろうな、その思いだけだった。でも、思う、母が死の不安に襲われていたときは、私が横に寝ることを拒んだだろう。そして、私が横になっていたときは、もうすべてが”無”だったはずだ。学者が何を言おうと、問いは一つ。生きるって何。”死”は論じてはならぬ。誰にも論じられぬ。


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