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2015/06/28(日)
再びアメリカで
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無事に帰ってきた。心配した通り、庭はぐちゃぐちゃ。しかも、フロントのコンクリートを直してもらったときに、もみじの大きな枝をおさえつけたようで、幹のところから裂けた状態になっているのを発見。きのうはそれで気分がすごく悪かった。今は修復を願って、あれやこれやとやっている状況。あれだけ気をつけるように言ったのに、と腹がたって、業者には絶対に金は払わない、と怒っているところだ。(怒笑)向こうがどう出てくるか、と待ち構えているこの心境こそ、アメリカで生きてる気分。(笑)そうかと思えば、沖縄に出かけていった首相に、帰れ、とやじが飛んだことを日本のメディアは報道せず、海外のメディアが報道した、というニュースを読んで、ああ、日本もいよいよ終わりだな、と実感した。それって、勝ってます、勝ってます、と敗戦まじかでも言ってた大本営報道と同じじゃないの。メディアが政府にとって不都合なことを報道しなく、報道できなくなったら、民主主義の終わり、全体主義の始まりである。で、そういうことは考えもせず、どっかの駅の猫が死んだからと、社葬で3000人が参加した、なんてバカな話が堂々とニュースとして報道されてるのを見て、吐き気がした。お前、あほか。(怒笑)日本にいるときは、沖縄戦のニュースばっかり聞いて、戦争はだめ、みたいな言葉が飛び交っていたが、これも吐き気がした。ISは知らないけれど、一国のリーダーはみんな戦争は悪いこと、と知っているのである。悪くても、せずにはいられないところに追い込まれてしまうのが現実なのである。その現実にどう対処していくかで、どこの国のリーダーもふうふう言ってるのである。沖縄の人が、安倍首相に、帰れ、と叫んだのはすばらしい。それができるのは、沖縄戦の悲惨さは、自国−つまり日本の兵隊に死ねと言われ、自国に殺された悲惨さを身に刻んでいるこからである。叫びつづけねばならないのは、戦争はだめ、みたいな、気の抜けたサイダーみたいな言葉ではなく、自分の国に自決させられた悲惨さである。それは、戦争は悪い、とはまったく関係がない。答えを出さねばならないのは、いよいよ沖縄に敵がやってきたときに、ああ、もう敗戦は日を見るより明らか、これでやめよう、と決断できなかった政治家、軍人、そして天皇に対する責任追及である。結局、その部分に自らこたえを出さずに、ただ占領政策をうまくやるために天皇を残したアメリカに再び甘えて、戦後をやり過ごしてきたつけが、今、日本をおおいつくしていると思う。で、相変わらず、戦争はだめ、みたいなセンチメンタリズムだけでごまかし、政府に都合の悪いことはメディアが隠し、猫の社葬は報道して、一つの文に”思い”という言葉を3回ぐらいちりばめて、動物にもおかしな敬語を使い、そういう空虚な音の連なりに身を浸して生きている人たちー日本はいよいよ私には遠く感じられた。くだらん。。で、そのくだらなさを、アメリカも中国も、どうぞ、ご自由に、と笑いながら見てるのである。笑われていることを自覚せずに、安倍というおっさんは一人張り切ってるように見える。みっともない。そのみっともなさは、戦犯として巣鴨に入れられた人たちが感じたかもしれぬ”みっともなさ”とは違うような気がする。私は、アメリカで、巣鴨にいれられた人々が感じたかもしれぬ”みっともなさ”をはねかえすべく、「敗戦国民の存在証明」をめざして、堂々と生きようと思う。安倍とやらは、ただただ邪魔である(笑)
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