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2006/05/19(金)
製麺工場跡地。。。丁字屋の歴史
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そうそう。
富士吉田は織物産業で盛った街です。
一昔前のDCブランド(懐かしい)の半分以上の布はココで作られたものだったそうです。(本当)
今でも有名なブランドのネクタイやワイシャツは製造後、ネームタグを仏製や英製にして売ってます。 (今更隠してもしょうがない。)
んで・・おいらの家はひいじいちゃんが今のスーパーの場所で染色工場をしていた。 名前はシンペイさん。
ひいじいちゃんが染めた黒色は・・それはそれは漆黒の美しい黒色で「新平黒」といわれていたそうだ。
工場で何人も人を雇っては稼いでいたようで・・近所の婆ちゃん達には今でも信仰者が・・・
このまま行けば・・今頃オイラもスーパーカー(古い?)に乗って、首にマフラーでもなびかせて毎日ウハウハな生活が出来ていたに違いない・・・。かも??
ですが・・・・・お坊ちゃまの爺ちゃん(爺ちゃんゴメン・・ばらして・・)の代になって身上(←コレでいいの?)食いつぶしてしまったそうだ。
困った爺ちゃんは・・土地を二束三文で売り払い・・親父は高校も中途退学して土方で生計(兄弟は6人姉、妹が各一人弟が4人)、しかも・・爺ちゃんは若くしてほぼ引退(生粋のお坊ちゃまなので・・・)その後、親父が・・築地に行って何かの大きい機械を買ってきたのだそうだ。
そう・・それが・・当時この辺りでは珍しいうどん生成の機械。 そう・・おいらの家の前進はうどん工場なんです。
この機械はかなりの躍進振りを見せ、爺ちゃんが作った借金を見る見るうちに返して行ったそうな。 工場は・・そう・・20畳くらいあったかなぁ。。 エンジンをかけると大きな音がして・・当時機や(織物工場)の音で街中が活気付いてる中、異色の音だった事を思い出します。
富士吉田はうどんの街。
そんな事も無い時代から黙々とうどんを作り上げ・・その昔は遠くからうどんを買っていくお客様で毎日込み合っていたそうだ。 おいらがまだ小学生の頃にはフル回転で使われていた記憶があります。 毎日の天候に合わせ水の量、粉の配分。。 確か、おじさん(親父の一番下の弟)が工場をまわしていました。
で・・・・親父が劇物(農薬とか・・肥料)の免許を取り・・酒の免許を取り・・こうしておいらの家は総合食料品店(スーパー)になったそうです。
・・・・・・・十数年前・・新規オープンの際に並行輸入酒で流通のノウハウを覚え・・その後、地元のスーパーで生物(魚)や精肉、お惣菜などの修行を終えたおいらに任せてこの店が出来ました。
なので・・今でも、思い入れがあるのがうどんなんです。
なんたって・・元祖「吉田のうどん」販売店なんですから。
で・・今ではここのうどんを応援している訳です。
皆さん・・吉田のうどんは美味しいだけでなくお子様のアゴ育成にも一役買います。
さぁ・・吉田のうどんを食べてアゴを鍛えましょう(笑)
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