|
2008/08/20(水)
食す。ということ。
|
|
|
「クッソー、コイツ、マジムカつくわー。死ね!!」などと 普段思っている相手であっても、ある姿を見せられると、 「うぇ〜ん。あんなこと思っちゃって、ゴメン。」と、たちまち反省させられてしまう。
「ある姿」とは、ご飯を食べる姿のことである。
何故なのだろうか。 社食とかで、パクパク食べてる姿などを見てしまうと、たとえどんな相手であろうと、無償に「愛しい」と感じてしまうのである。
で、この感じっていうのは、高級レストランとか居酒屋とか、場所を問わず、とにかく食ってる人を見れば得られるのかっていうと、そうではない。
つまり、「美食」目的で集まっている人たちからは、感じることができない。
なんというか、植物が水を吸うみたいに あるいは、野生動物が餌を貪るように ただとにかく当然のように当たり前のように「食す」という行為を無心に行っている人でないとダメなのだ。
社食は、午後も働くための、その「栄養補給」のために、時間がきたから、食べ物を口に入れる。みたいな人たちの集まりである。
だから、超大嫌いな奴でも、パクパク食べてるところを見ると、「あー、コイツも、一生懸命、生きているんだなぁ」などと思ってしまい、憎むことができなくなるのだ。
つまり、「食す」という行為は、純粋に生きるためにしている行為で、邪気がない。
犬やネコの、餌を食べる姿が可愛いのと同じで、人間も、やはり無心に食べる姿というのは、とても可愛く愛しいものなのだ。
「食す」以外にも、動物が生きるために最低限必要な行為は、いずれも邪気がない。
だから、本来、全てが純粋で全てが美しく愛しいはずである。 つまり、食う、寝る、出す、やる。これ全部、美しいのだ。
これに欲やら虚飾やら見栄やらが絡むと、全て汚い行為になってしまう。
最近のアタシは、何やら失敗した感に襲われて、自己嫌悪に陥り、自爆気味になったりしていた。
だが、それは、己のキャパを超えて自分を良く見せようとかいう見栄を張り、それに失敗して自滅したせいである。
今日、会社で昼飯を食べながら、ボンヤリと周りを見渡してみて、突然悟ったのだ。
もう作るのやめよう。 アタシは生身のアタシで勝負しよう。それが一番美しいのに違いないのだから。と。
考えてれみれば、かなり昔に友達と行った、サバイバルキャンプのとき然り、それから先日おかんと行った京都旅行然り、で、ここ最近のアタシ然り、いずれも、相手を楽しませようとして、己のキャパを超えた頑張りをしてしまい、結局無理が祟って自爆。という、繰り返しであった。毎回そうである。
でもよくよく考えてみれば、アタシが自然にしていれば、相手も自然にしていたはずなのだ。 それなのに、気を遣いすぎて、楽しんでいないのじゃなかろうか。とか、迷惑かけたんじゃないか。などなど、余計なことを色々考えてしまうから、自分も相手も楽しめなくなってしまう。 そういう失敗を、もう何度も繰り返しているわけである。
いい加減、アタシも学習せねばならん。 だから、腹減った→栄養補給→食す。みたいなシンプル構造で 生きていこうと決めたわけである。
などと、パソコンに向かってチマチマ入力しているこの自分の姿こそ、虚栄であり、醜さの象徴であることに他ならないわけだが。
、、、ま、いいでしょ、そこは。
|
|
|