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2006/04/03(月)
無題
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とある女の子のブログを読んだ。
今までそれがあるとは気付かなかったけど、某サイトでちょっとだけは交流があった女の子のブログだった。
その子は栗だったということを初めて知った。
そして、ちょっと前に神様のことで動揺することがあったことを読んだ。
もう、本人は落ち着いたようだし、ここに自分が思うことをこっそり書いておこうと思った。
今の自分があるのは神様が決めてくれたんじゃないと思うんだよ。
「努力しよう」と、そう考える方向に導いてくれたのが神様なんじゃねえの? 自分の努力もみんな“神様のおかげ”って言われたら、やりきれねえって。
ヤツがそうなんだよ。
去年、仕事を辞めたいと言い出してから、私は必死だった。
自分もずっと鬱状態を抱えて、病院に行ったほうがいいんだろいうなと思いながら過ごしていて、そんな時期にヤツも精神的に参ってきていた。
私はヤツを支える自信が無いと言って舅から「自惚れてる」と言われたり、毎日家族がいなくなってから大声で泣いたり、相談できるところに片っ端から相談したりしながら、必死で日々を過ごしていたんだ。
でも、ヤツは仕事を休んでるのに教会に隠れて行ったりしていた。
そんな場合じゃねえだろ と言った私に、ヤツはこう言ったさ。
「今、神様だけがボクの支えなのに?!」
目の前が真っ暗になった。 それまでの私がヤツに費やした日々を考えると悔しくてしょうがなかった。
だから、本社に戻ることが決まっても、ヤツについていく気にはもうなれなくなってしまった。
何したって「神様のおかげ」にされたら、やってられねえわ。
ヤツは「感謝することを求められるくらいなら、自分でやった方が気が楽」と言った。
“感謝”はあえてするもんじゃない。 心の内から自然にわいてくる感情のひとつだと私は思う。
大体、ヤツはそうは言っても、「自分で」なんて何もしない。
結局、なんでもやってもらって当たり前。 当たり前どころか、ボクのために動かないほうがおかしい、くらいの考えなんだろう。
で、あえて感謝するなら自分より確実に上にいる者、牧師であったり神様であったり、そういうものにしか感謝できないわけだ。
で、聖書に忠実に生きたいのに、私がそれを阻むと。
「ボクは毎週教会に行きたいのに行かせないのが悪い」と。
私は牧師とも面会したりして、アンタの歪んだ部分を信仰が矯正してくれるなら御の字くらいに思っていたがなあ。
大体よ、聖書に忠実に生きることが本当に神様が望んでることなのか? 栗だったら何やってもOKかよ。 神様信じないと地獄に落としちゃうよ って脅しかよ。 それが“愛”を教える神様かよ。
だからさ、おかしいつうんだ。
こんなこと言ってるほうが神様に対して失礼だと思うがなあ。
先ず聖書ありき でなく 先ず神様ありき だろう?
周りと調和もとれず盲目的に信仰に走ることを神様は望んでないと思うがなあ。
そんな、「神様マンセー!!!」って言わせるために人間を作ったとしたら、そんなん、作らなくっていいじゃんって話にならないか?
人間は不安なときや恐怖を覚えたとき、何かに頼りたくなるよな。 今自分の目の前にあるものが信用できなくなって、違う何かに頼りたくなったりするじゃん。 そんなとき、「私を信じてよ」って言うじゃん。
神様も躁だったんじゃないの? 不安や恐怖を覚えた人間が勝手に偶像なんかを作って拝んだりしていたとする。
そんな人間を見て、「そんなん、拝まなくっても大丈夫だよ。私を信じてよ」ってその位の意味で言ったんじゃないの?
それを「あああああああああ! 神様を信じないと地獄に落ちるぅぅぅぅ!」って人間が勝手に思ったんじゃないの?
もしそうだったらどうするよ。
ヤツみたいな栗は神様を侮辱してると思うね。
神様信じないと、神様の言うとおりにしないと、地獄が待ってる、なんて、ひでぇ神様じゃん。
そんな神様おかしいだろうよ。
神様は見てるはずだよ。
誰が努力しているか。 誰が人として正しく生きているか。
努力せずに神様に責任丸投げするなんておかしいって。
いいことがあっても悪いことがあっても、神様は見てるだけだよ。
いいことがあったら神様と一緒に喜べばいいんじゃね? 悪いことがあったら神様と一緒に泣けばいいんじゃね?
それくらいに身近に、自分のすぐそばにいつも神様がいる、見られてる、見てくれてるって思うことのほうが、聖書を理解するより重要なんじゃねえかと私は思うんだが。
ってこういうことを言うと栗の人からは「それはちょっと違いますよ」って言われちまうんだよな。
いいんだよ。 私は人として、他人から後ろ指さされるような生き方はしていないと、自信持って言える人生歩むからさ。 その結果が地獄だったら本望だ。
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