私事の毎日をボチボチ、マイペースで綴って行きます。
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2006/10/30(月) 姫路出身・藤野ひろ子さん
 2006年10月29日、TEGARAYAMAイベントが(姫路の手柄山で)開かれました。

 姫路で、アーティストとして、『藤野ひろ子』さんと同じステージに立てた事に大変、感激をしています。

 姫路出身の『藤野ひろ子』さんは、子供の頃よりその歌唱力には非凡なものがあり、大変、注目されていました。『じろりん』が中学生のころ、東京でデビューされ、『浜でギターを弾いてたら』とうい曲がヒットしてテレビにも出演されるなど活躍されておりました。

 その頃、姫路で行われたイベントにはよく行っておりました。(もちろんレコードも持っていましたし、今でも覚えています。)

 『じろりん』が、東京の日生劇場で大道具をしている時、五木寛之・作の『恋歌』という芝居が『芦田伸介』さん主演で上演されました。その舞台のテーマ曲が『藤野ひろ子』さんの第二弾『鳩のいない村』という曲で、毎回、挿入歌として一番良い場面で流れていました。(当時テレビドラマの主題歌にもなっていました。)

 数年前、私がまだ『じろりん』ではなく『尾崎二郎』だった頃、奈良県の都祁村でのイベントに呼ばれました。その時のスペシャルゲストが『藤野ひろ子』さんでしたので、驚きました。

 同じ楽屋だったので、話の中で、「私が、大道具をしていた日生劇場の舞台で『鳩のいない村』が毎日流れていましたよ。」と『じろりん』が言ったら、「それは、全然、知らなかったわ!」と言われ、「そんな事が、あるんだ・・」と、意外に思いました。

 アーティストの作品(レコードやC D・・etc.)は、アーティストの分身であり、子供でもあるように思います。親の知らない間に羽ばたいて、一人で勝手に大きく成長する事もあるのかも知れません。それが、メディアの力なのだと思います。

 『じろりん』にもHPというメディアを与えて頂いて、今は、立派に育ってくれる事を願うばかりです。本当に一つ楽しみが増えました。

2006/10/24(火) 黄門さんも昔は悪かった
日生劇場で松竹舞台・制作の『水上勉』作『雁の寺』が上演された。主演は『岡田茉莉子』さんで、脇に『中村賀津雄』さん、そして『西村晃』さんが出演されていました。

老住職役の『西村晃』さんは、本当にいやらしい生臭坊主の役で、演技とはわかっているのですが、私生活でも舞台の役と同じ様に嫌な性格ではないかと、その時は、本気で思っていました。それほど緊迫した名演技だったのです。

小坊主役の『中村賀津雄』さんが、叱られたり、いじめられたりするシーンを見ていると、新米大道具の『じろりん』が叱られている姿と重なり、舞台袖でいつも「ガンバレ!」と、エールを送っていました。

その時『西村晃』さんの付き人をしていた人が、最近、タレントの『篠原涼子』さんと結婚をされた、舞台俳優の『市村正親』さんでした。

『岡持ち』を持って、舞台袖で『西村晃』さんの演技をじっと見ておられた『市村』さんの姿が今も印象に残っています。そして、きっと楽屋でいじめられているのに違いないと、『じろりん』は勝手に想像し、そう思い込んでいました。

それから暫らくして『市村正親』さんは、『劇団四季』で主役を張られるようになり驚きました。

『じろりん』が姫路に帰って来てから、テレビの『水戸黄門』役が『西村晃』さんに替わりました。最初ものすごく違和感があったのですが、放送の回数が進むにつれて、「なんだ、『西村晃』さんって、結構良い人じゃん!」と段々思うようになって来ました。

「『じろりん』って、いい加減と言うか、単純って言うか、本当におめでたい奴だった。」と言う事が、最近やっと自分で分かりかけて来ました。

2006/10/21(土) じろりんモデルになる
 日生劇場の大道具は、俳優座の美術部に属した会社で、本職の大道具の人に混じってアルバイトの人が必ず数人おりました。

 そんなアルバイトの人は、役者の卵だったり、演出家の卵だったり、芸術家の卵だったりする人で、結構、魅力のある、変わった人が多くおられました。

そんな中に、二歳年上の『後藤良二』という、彫刻家の卵がおられました。控え室に置いてある碁盤で五目並べをするのですが、やたら強くて、結構自信の有る『じろりん』が五回勝負をしても四回は負けていました。(もっと負けていたかも・・)

それから数年して、後藤さんから「今度、宇部市の現代日本彫刻展に「ダイアモンド構造」という作品を出品 する事になったのでモデルになってくれないか!」と、電話があった。
http://homepage2.nifty.com/ryoji-goto/FlyImage/aaa.jpg(ダイヤモンド構造)

どうせ暇なので、コンビを組んでいた『小林アトム』君と一緒に後藤さんの家へ行き、パンツ一丁になってポーズをとりバシバシ写真を撮られました。

その作品が秀作賞を受賞して、彫刻家『後藤良二』さんの名前が一躍世に出ました。

その作品は、当時『箱根・彫刻の森美術館』に展示されており、『夕刊フジ』のTV・CMにも使われていました。

『じろりん』のHPが出来たので、お知らせしょうとネットで検索したら、今では、彫刻家の大先生になられていました。

早速、メールでコンタクトをとり、『じろりんC D』を送ったら、早速・・・「・・こうしてみると時間がたつのは早いもので、大道具時代もついこの間のような気がします。・・」
 
「昨日、『じろりんC DW(フォー)』が届きました。ありがとうございます。歌は異なりますがパワフルな歌いこみで昔を思い出し、懐かしく思いました。
特に、ライブバージョンはお客さんの反応もあってか声に張りがありますね。
また他の人に聞かせて感想を聞いて見ます。特にカミサンは音楽にうるさいので厳しい感想が出てくるかもしれませんが・・」・・と、返事があった。

インターネットとHPのおかげで、『じろりんワールド』がますます広がって行く予感です。

http://homepage2.nifty.com/ryoji-goto/index.html  ←ここで『後藤良二』さんが見れます。

2006/10/18(水) 今思えば・・有り難い
 『じろりん』が大道具をしていた日生劇場では、リサイタルもよく行われていました。『越路吹雪』さんのロングリサイタルは別格として、印象に残っているのは、『沢田研二』・『布施明』・『森山良子』さん等のリサイタルでありました。

 『沢田研二』さんは、グループサウンズ解散後の『ピッグ』というグループでのリサイタルでした。当時の『沢田研二』さんは、今の『木村拓哉』以上の人気があったように思います。

 『布施明』さんは照明のピンスポットとからんだギャグをやり、笑いを取っていました。

 そして、歌唱力が抜群だったのが、なんと言っても『森山良子』さんでした。特に心に残っているのは、『思い出のグリーングラス』という曲で、今では、『じろりん』のレパートリーになっています。

 リサイタルでの大道具の仕事は、仕込んでしまえば、たいがい大きな舞台転換もなく、開演前に掃除をするぐらいでした。

 一回公演の日は実働四時間位で、ほとんど待機をしているだけなのに一日分の日当を頂いていました。(二回公演の日は、残業もついていました。)
 
 その当時は、よく怒られたり、怒鳴られたりしていましたので、しんどかった思い出しか無かったのですが、一流の舞台に日当まで頂いて、毎日接する事が出来ていたのですから、「本当に有り難い経験をさせて貰っていたのだなぁ!」と最近になって、やっと気が付きました。(ちょっと!じろりん遅すぎ・汗・)

2006/10/14(土) こんな筈では無かったのに・・・
 『じろりん』は、小さい頃より、『テレビの世界』に憧れ、本気で『東京』に憧れていました。(高校時代、家出して東京まで行きましたが、何も出来ず一日で帰って来た経験があります。)

 19歳年上の兄貴が、見かねて演出家で舞台装置のプランナーでもある、知り合いの『望野智』先生に上京後の進路を相談してくれたのです。

 先生は『じろりん』には『フランキー堺』さんの付き人か、『日生劇場の大道具』か、どちらかが良いのでは・・と考えておられました。

 『じろりん』が「出来たら演出の勉強もしたい。」と話していたので、先生は「付き人では、狭い範囲でしかモノが見えない。」と言われ、『日生劇場の大道具』の方を紹介して下さったのです。

 溢れるばかりの夢と希望を持って東京へ降り立った時、世界は『じろりん』を待っていると思っていたし、三年後は大スターと勝手に確信していました。(東京には、こんな奴、結構多い)

 上京して、仕事第一日目は、イギリスの『ロイヤルシェークスピア劇団』の千秋楽でした。そして、その公演終了後いきなり舞台バラシと次の公演の仕込みで徹夜になりました。

 ガチ袋(腰袋)にナグリ(トンカチ)を持って慣れない大工仕事が始まりました。口の悪い先輩から、「馬鹿野郎!お嬢さんの日曜大工じゃねえや!」と怒鳴られっぱなしで悲しくなりました。

 関西人は「アホ」と言われても、あまり抵抗は無いのですが、「馬鹿野郎」と言われると本当に落ち込んでしまいます。

 やっと一段落して次の日、劇場の風呂に入ると、体中アチコチ痛くてヒリヒリしていました。華やかな芸能界に憧れて東京まで来たのに、俺は一体、何をやっているのだろう・・

 現実の自分の姿に、「こんな筈では無かったのに・・」と思うばかりでした。

2006/10/10(火) [アベック歌合戦]って知ってる?
 『じろりん』が子供の頃、『アベック歌合戦』という番組があって、司会の『トニー谷』は大変な人気で一世を風靡していました。(最近、『清水アキラ』がモノマネをしています。)

 でも、私が昭和四十七年に上京して、日生劇場の大道具をしていた頃には、もうすでにピークを過ぎていました。

 東京で大変お世話になった演出家で舞台装置プランナーの『望野智先生』から聞いたのですが、その頃のトニー谷は飛ぶ鳥を落とす勢いであり、超売れっ子で、当時の芸能界を肩で風を切って歩いていたそうです。

 しかし、一番の失敗は裏方さんに嫌われた事にあったそうです。まさに人気絶頂と思われていたその時、ついに裏方さんの逆襲が始まったのでした。

 『トニー谷』がさっそうと舞台に登場してきた時、口元まで上がるはずの舞台マイクが、中途半端で止まってしまうのです。

 次に照明さんのピンスポットは、外れて当たっているし、音のタイミングは、ずれる、幕の開閉もチグハグで、散々な舞台になってしまったそうです。

 その事があってから、一挙に人気が急降下して、ついには舞台でもテレビでも彼の姿を見ることはなくなってしまいました。

 舞台芸術は、主役一人の力だけで成り立つものではなく、大勢のスタッフや裏方さんの一手一つの協力があってこそ成り立つもので、『トニー谷』さんはそれを、ないがしろにしたのが、こういう結果を招いてしまったようです。

 日生劇場の楽屋のエレベーターで道具を運んでいる時、小柄な紳士が乗り込んで来ました。先輩が私に「今の人、誰だかわかる?あれが『トニー谷』だよ。」と教えてくれました。

 誰か知り合いの楽屋見舞いに来られていたようです。その後、一度も彼の姿を見る事はありませんでした。

 そんな事が影響しているのかどうかは、知りませんが、一ヶ月間の舞台が終わって打ち上げパーティーの席にはちゃんと裏方さんのテーブルも用意され、上京数ヶ月の見習で新米の私も、有名な演出家や役者さんに混じって大きな顔で出席させて頂きました。
 
 どんな立場にいる人も、どんな役をしている人も、無駄な人は一人もいない、みんな一人一人それぞれ大切な、大事な役目があるという事を忘れてはいけないと、『トニー谷』さんの一件から教えて頂きました。

 「考えて見れば、人生という総合芸術も、決して一人では作り上げる事は出来ないのだなあ。」と最近つくずく思うようになりました。
   

2006/10/07(土) あー勘違い
 剣友会では、立ち回りで斬られて水に落ちたり、高い所から転げ落ちたり、トンボ(宙返り)が出来る人はギャラが高いと言われておりました。(その頃は、スタントマンという職業は、日本にはまだ無かったのです。)

 年配の先輩にトンボきりの『しんちゃん』という小太りのオジサンがいました。

 新宿コマ劇場で、今は亡き『江利チエミさん』が『清川虹子さん』の楽屋見舞いに来られた時、その『しんちゃん』に、「あら!しんちゃん、久しぶり・・」と言って、親しげに挨拶をされているのを見て、私は、「このオッサンすごい人だなぁ!こんな大スターと気楽に挨拶が出来るなんて・・・」と、ちよっとした驚きと共に見直しました。

 一ヶ月公演の千秋楽が終わって、主な出演者を『清川虹子さん』が打ち上げに連れて行って下さいました。場所は忘れましたが、『ドンキホーテ』という店でした。

 生まれて初めてそんな店に行きましたので、どんな店だったか?舞い上がっていて、ちゃんとした記憶がありません。(汗)

 覚えている事は、
〇ジュータンが敷き詰めてあった事、そして靴を脱いで入った事。

〇そこへ俳優の『たこ八郎』さんが、「皆さん、お疲れさまでした。」と挨拶に来られ、紹介してもらった事。

〇ピアノの弾き語りがあった事。

〇「どなたか歌われる人いませんか?」と言われてステージに上がって『九ちゃんの歌』を歌った事です。(その頃、世間にはカラオケという物ははまだ無く、人前で歌う事には、かなり勇気がいったのです。)

 この時、こんな所に身を置いている『じろりん』は、いっぱしの芸能人になったような気分になっていました。

 上京して二年程すぎた頃の大いなる『錯覚』と『勘違い』の二十歳でした。

2006/10/04(水) 「三匹の侍」に斬られたぞ!
 初舞台の新宿コマ劇場『美空ひばり公演』に続いて、同じコマ劇場で『清川虹子、芦屋雁之助、小雁、奈美悦子、沢竜二・・』等が出演されている『喜劇』に出演させて頂いた。(演目は忘れました)

 その舞台に、『長門勇』さんも出演されていました。今回は立ち回りの絡みもあり、殺陣師の『菊地竜志』先生の見事な殺陣(たて)が振り付けられました。

 殺陣(たて)の原則は、『舞台』では決して身体に刀を当ててはいけません、大きな振りで踊りのようにカウントを数えながら、立ち回りを覚えていくのです。

 ところが、『長門勇』さんは『三匹の侍』という『 時代劇映画』の方でしたので、直接身体に、刀を当てられるクセがありました。

 剣友会の先輩から、「以前、長門さんと絡んで、ろっ骨を折った人がいる。」と聞いていましので、みんな刀が当たる個所に雑誌や新聞誌を入れて防護していました。

 そして、いつものように完璧に防護して、長門さんに向かっていったら、刀がちょっとずれて直接、身体に当たってしまいました。

 竹刀とはいえど、その痛かったこと・・息が止まりそうになりました。

 楽屋の風呂場でよく長門さんのお付きの人と一緒になりましたが、彼だけでなく、この一つの舞台だけでも、かなり多くの人達が関わり、又、かなり多くの人達が俳優や役者を目指しておられました。

 その中で、一枚看板になれる人は、『一握り』、いや『一つまみ』の人だけなのです。そう考えると、『じろりん』の前途も、かなり多難だなぁ、と思わざるを得ませんでした。(昭和48年頃の話しでした。)


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