私事の毎日をボチボチ、マイペースで綴って行きます。
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2006/11/25(土) ちょっと、重たい話ですが・・・
 前回の衆議院選挙で、『小泉首相』は、郵政改革反対の議員に刺客を送って大勝利しました。そのあおりをモロに喰らったのが、車椅子の国会議員として有名な、『八代英太』さんでした。

 三十数年も前のことです。私は、『日本テレビ』が立ち上げた『日本テレビ総合タレント学院』の一期生として一年間通いました。『日本テレビ』のスタジオを使って、日本舞踊や殺陣(立ち回り)、モダンバレエ、声楽、芝居、コント等の授業があり、後輩には、今テレビで大活躍のタレント『三宅裕司』もいました。

 その頃、『八代英太』さんは、今で言う『ものまねタレント』で当時は『声帯模写』と言っており、『お昼のワイドショー』の司会をされるなど活躍されておりました。その『八代英太』さんが、この学院の講師として来られ、話を聞く機会がありました。その時、聞いた話の中で今でも覚えている話があります。

 それは、「君たちには、これから色んな仕事が来ると思いますが、一生懸命やる事は大切ですが、毎回、100%の力を出し続けるというのは無理なことです。普段は80%位の余裕で仕事が出来る位の実力を持って下さい、でも、いざここで勝負をかけるという時には、120%の力を出しきって臨んでください。それが、天下を取る秘訣です。」と、教えて頂きました。

 その後、間もなくのことでした。地方公演の舞台で事故にあわれました。出番後、舞台のセリが降りていることを知らず、暗転の暗闇を下がられる時に舞台下(奈落)へ転落されたのです。その事故で下半身不随となられ再起不能とまで言われました。

 ところがリハビリにリハビリを重ね、復帰されるや、国政選挙にうって出られ、その結果見事に当選され、『青島幸男』さんや、『中山千夏』さんらと共に『二院クラブ』に所属し大いに活躍されました。

 「一寸先は闇」と言います。正にそうかも知れません、でも、もし神があるのなら、その闇の向こうには、きっと暖かい大きな光りが両手を広げて待っている事と信じます。

 前回の選挙には、惜しくも落選されましたが、『八代英太』さんには、結果を恐れず挑戦し立ち向かってこられた歴史があります。

 人生、何が起ころうと、たくましく生きて行きたいものです。

 「険しき道、されど我が道」という言葉を『八代英太』さんは、座右の銘にしておられます。

2006/11/22(水) テレビ局の秘密の場所。
 NETテレビ(現・テレビ朝日)の大道具に、ちょっと年上の『カボさん』(高橋さん)という先輩がいました。

 テレビ局に興味津々の『じろりん』を、局内のヒミツの場所へアチコチと連れて行ってくれました。そして、見るもの、聞くもの珍しくて、ウキウキしていました。そんな時、急に発声練習がしたくなって、「あ〜〜」と大声をだしたら、「大きな声を出すな!」と、真剣に怒られました。

 そして、連れて行ってもらった場所が、誰も来ない屋上の一角でした。それからというものは、仕事が始まる前に、その場所で大声で歌ったり、発声練習をしていました。都会には、大声を出せる場所が中々無かったのです。

 そんな、いじらしい『じろりん』の姿を、一流プロダクションの人に偶然見られ、スカウトされて超人気者になっていく。という『夢のストーリー』を勝手に作り、そんな『じろりん』のXデーを本気で待っていました。

 先輩の『カボさん』は、「『日活ロマンポルノ』に出ている、女優の『片桐夕子』は、俺の同級生で、この前スタジオで会った時に・あら、『カボちゃん』元気にしてる?って、声を掛けられたよ。」と、よく自慢げに話していた。

 『カボさん』(高橋さん)が、あれからずっと大道具を続けられていたら、今では、かなり『偉いさん』になっておられるだろう。

2006/11/19(日) テレビカメラの前と後ろとの違い
 その頃の『テレビ朝日』は『NETテレビ』と言っておりました。スタジオでセットを組んでいた番組は『森繁久弥』さんや『竹脇無我』さん出演の『だいこんの花』と言うドラマや、『田宮二郎』さんの『タイムショック』・『ベスト30歌謡曲』・『ワイドショー』そして、『徹子の部屋』はその当時からありました。

 劇場の大道具と違って、テレビの大道具は大いに刺激がありました。リアルタイムで全国放送しているテレビカメラの後ろにいるのですから・・

 又、朝の『モーニングショー』には、ジャズクラリネットの北村英治さんのトリオがレギュラーで出演されており、毎朝ゴキゲンなジャズを聞く事が出来ました。

 『モーニングショー』には、当世の話題の人物が数多く出演されておりました。関西で話題のフォークデュオと紹介されて、登場したのが新人の『あのねのね』で、『赤とんぼ』と言う曲を歌いました。『じろりん』の親父たちが、飲んで手拍子で唄っていた歌によく似ているなと思いました。

 そして最後に、『歯医者さんの歌』と言って、ギターの六弦にピックを縦に当てて、「ギリギリギリ・・」と、歯を削る音を出して、ウケテいました。

 そして、暫らくしたある日、今度は九州・博多で話題のバンドと紹介されて『海援隊』が登場し、『母に捧げるバラード』と言う歌を歌い上げました。しゃべりも面白くて、大したものだな、と思うばかりでした。

 その時の『じろりん』は、テレビカメラの後ろに居て、テレビカメラの前で、今正に花咲こうとする『あのねのね』や『海援隊』を、遠い憧れの眼差しで見つめていました。

 テレビカメラの前と後ろとの違い、その僅か4・5メートルの距離が、とてつもなく遠く感じられました。

2006/11/10(金) スータン(真帆志ぶき)さん有難う
 上京後まもなく、日生劇場の大道具をしている時に『真帆志ぶき』さんとお会いしてから四年後、その頃は『小林アトム』君(現・劇団四季)とコンビを組んで、『シャープ・スターアクション』というテレビ番組のアシシタントをしていました。

 その番組のA・Dをしていた『中野久』君から連絡があり、彼がアルバイトをしているスナックを、改装してパブレストランにするので、店で弾き語りを募集しているという話が舞い込んできました。

 アトム君は、ギターも弾けるし歌も唄えるということで、オーデションを受ける事になりました。その店が偶然にも『真帆志ぶき』さんの店・四谷三丁目パブレストラン『ジル』だったのです。

 『真帆』さんに日生劇場での事を話すと、覚えていて下さいました。『アトム』が歌った後、「あなたは歌わないの?」と言われ、面白い歌を何曲か唄ったら二人まとめて採用ということになったのです。

 ボーイをしながら、時間が来ると30分の弾き語り(『小林アトム』がギター『じろりん』がボンゴ)をして、盛り上がると『ショータイム』でさらに盛り上がりました。

 『ジル』のショータイムは大変人気が出て、連日大入りで、ちょっとしたブームになりました。『真帆』さんの人脈と四谷三丁目という立地条件にも恵まれてテレビ、舞台の打ち上げもよくあり数限りない著名人達が出入りするようになりました。

 『真帆志ぶき』さんは、私達を大変可愛がって下さって身内のように大事にして頂きました。時には、誕生パーティーをして頂いたり、徹夜マージャンをしたり又、旅行に連れていって下さったりと今までの生活では味わえないような経験をさせて頂きました。そして、私達を全面的にバックアップしていろんな人に紹介して下さいました。

 15年程前、青年会で東京へ行った時、夜の自由時間に、姫路の『藤岡君』と山崎の『塚本君』と一緒に、今は赤坂にある『真帆志ぶき』さんの店へ立ち寄りました。

 店の人は、大変喜んで下さって早速『真帆志ぶき』さんに連絡をとって下さり、暫らくすると、店まで会いに来て下さいました。そして、私達の為に数曲歌まで唄って下さり、感激致しました。今では、コンサートを中心に活動しておられ熱烈なファンに、今も追いかけられておられます。

 ここだけの話ですが、その当時『真帆志ぶき』さんは、今テレビのバラエティ−番組に毎日のように、出演されている俳優のN・Aさんと、付き合っておられました。

 その後の経緯は、どうなったのか、私は詳しく知りません。

2006/11/05(日) 宝塚・元トップスター『真帆志ぶき』さんの事
 「人生は,筋書きのないドラマ」なんて言いますが,神様は、一人ひとりちゃんと、それぞれの筋書きを書いて下さっているのではないのでしょうか?そんな予感がする出会いでした。

 私の十年の東京生活で,最もお世話になった方は、ファンから『スータン』の愛称で親しまれている元宝塚の男役トップスター『真帆志ぶき』さんです。(本名が『鈴木』なので『スータン』と呼ばれています)
 
 私が高校卒業後,上京して日生劇場の舞台美術係(大道具)の仕事をしている時,宝塚・雪組のトップから専科に移られた頃で、正に人気絶頂の頃でありました。
 
 日生劇場の隣にある帝国ホテルで『真帆』さんのディナーショーがあり、そのポスターが何故かよく目につき,宝塚を一度も見たこともないのに『真帆志ぶき』の名前がいつしか頭の中にインプットされていました。
 
 それから数ヵ月後、その『真帆』さんと『石立鉄男』さん主演で『スウィート・チャリティ』と言う、とっても楽しいミュージカルを日生劇場で一ヶ月公演することになり、私も大道具としてお手伝いすることになりました。(その後,私も沢山の舞台を見てきましたが、最も印象に残るミュージカルだったと思います)

 舞台稽古の時に舞台袖で足を組んでタバコをスパスパと吸っておられる姿を見て「まるで男のようだなぁ!」と、思ったものです。

 ミュージカルのオープニングは舞台の上から吊るされた変形の大道具を、スライドで動かすと、そこにポーズをとった『真帆』さんが板ついておられミュージカルが始まるのです。

 その大道具を動かしていたのが『じろりん』でした。一ヵ月公演のことでありますので、何時からともなく話をするようになり、出番前には、肩を揉んだり、腰を揉んだりするようになり、お付きの人とも挨拶をするようになりました。

 その時は、『真帆』さんのことを『スータン』と呼ぶことも知らず、お付きの人の名前も知らないまま、一ヶ月公演が終わったのでした。
 
 その時は、まさか数年後に不思議な出会いが再びあり、私の東京生活で大きな影響を与えて下さる人になろうとは、夢にも思っていなかったのでした。 (続きは、もうちょっと後で・・・)

2006/11/02(木) 張り切りすぎても、迷惑?
 大道具のスタイルは、黒の上下で黒足袋に雪駄履き、胸に俳優座美術部と書いてあり、いつも汚れていました。

 日生劇場は、地下鉄サリン事件で有名になった、日比谷線の日比谷駅で、前に日比谷公園、隣に帝国ホテル、裏に東京宝塚劇場・芸術座、ちょっと歩くと、帝国劇場や日劇、そして銀座がありました。

 憧れの東京で『じろりん』の胸は、夢と希望で溢れていました。出勤時間より、かなり早く行って、控え室の掃除をしたり、お茶の用意をしたり、色いろと仕事の準備をしていました。

 『じろりん』が一番『下っ端』の時はそれでよかったのですが・・数ヶ月すると、新しいアルバイトの人が入って来ました。

 すると先輩が「そんな事は、あいつ(新しいアルバイト)にさせろ!」といわれましたが、後輩のアルバイトといっても、年上の人だったので、相変わらず『じろりん』がやっていました。

 ある時、その年上のアルバイトの人に呼ばれ、こう言われました。「君が、張り切って、頑張っているのは分かるけれど、それは大変、迷惑になるから止めて下さい。仕事は、時間から時間までするのが仕事だから。」と・・多分、『じろりん』は、張り切りすぎて、その一生懸命が顔に出ていたのでしょうね。

 そう言われてハッと気が付きました。言われている事は当然の事で、張り切っているのは『じろりん』の勝手なのですから・・『じろりん』のようなタイプは都会では珍しかったようです。

 でも、その後「ジロー君のような田舎者は、僕は好きだなぁ・・」と、その人から言われました。そして、昼の食事や、弁当を買いに行く時には、大道具の汚い格好で、銀座の街をブラブラ一緒に歩いて、あちこち連れて行ってもらいました。その時は、そんな格好でも、不思議にも銀座に溶け込んでいるように思っていました。

 先日、姫路でTEGARAYAMAイベントがありました。私たちミュージシャンの世話を中心になってして下さった方の中にTONさんと言うハーモニカ吹き(ホラ吹きでは、ありません) がいました。
 
 何から何まで、本当に大変だったと思いますが、張り切っているようにも見えませんし、全然大変そうにも見えません。それは、正に楽しんでやっているからだと気が付きました。

 「何事も楽しんでやる!」今、『じろりん』が一番、心に思う事です。

http://k.fc2.com/hp.cgi/ton3mita/ ←これTONさん。。


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