私事の毎日をボチボチ、マイペースで綴って行きます。
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2006/12/25(月) 「ヒロシです」・「あした順子・ひろしです」
 最近「ヒロシです」というピン芸人がうけていますが、『あした順子・ひろし』師匠の、弟子ではない。 

 関西では、正月の寄席番組でしか見ることは、ないのですが、関東方面では八十歳を超えた、『ひろし師匠』が可愛いと、今、若い女の子の間で人気があるらしい。

 三十年程前、私が『浅草松竹演芸場』に出演していた頃には、もうすでにベテラン漫才師でした。

 ネタも結構おもしろく、まとまっておりました。毎回、同じテンポで、同じギャグを、同じ口調で演じられるので、間(ま)とかの勉強になり、いつも、客席の後ろから見学し、ネタの一部もこっそりパクって使わせて頂いておりました。

 コント『ジローとケンジ』で、浅草演芸ホールの正月興行に初めて出演した時、自分たちの出番が終わった後で、『あした順子・ひろし』師匠も出演されていることに気がつきました。

 舞台ではすでにパクッたネタもしっかり披露した後で、「これは怒られるな!」と思い、先手を打って謝りにいきました。

 すると、『順子師匠』が「あゝ、そうだったの、人のネタ、パクッちゃ駄目よ、気をつけてね。」と許して頂いた。

 でもすでに、自分のネタの一部になってしまっていたので、それからは、気をつけて使うようにしました。(笑)

 「継続は力なり」又、「続いてこそ道である」といいます。三十数年前から、大いなるマンネリの漫才をかたくなに演じ続け、今、若い人達に人気が出てきたことを、考えると、『あした順子・ひろし』師匠の姿勢は、「たいしたもんだなぁ」と思わざるをえません。

 今も三十年前と変わらぬテンポで、変わらぬギャグを、変わらぬ口調で演じ続け、巷では、伝説の漫才師と呼ばれるようになりました。
 
 先日、『ヒロシ』が出ているテレビ番組のゲストで出演され、いつものテンポでしゃべり、いつものテンポで唄い、いつものテンポで踊り、そして、最後に、いつもの一本背負いで『順子師匠』に投げ飛ばされる『ひろし師匠』の、いつもの雄姿がそこにありました。

 正に、「継続は力」であり、「続いてこそ道」なのであります。

2006/12/15(金) 『じろりん』付き人になる
 『日本テレビ』の『タレント学院』在学中に、『新宿コマ劇場』に剣友会(斬られ役)として、出演させて頂いた。

 その舞台に『沢竜二』という大衆演劇出身の役者さんが出演されていた。芝居は上手く、立ち回りも凄い、歌も上手で、いつも袖から見て勉強していました。あの時、聞いた『無法松の一生』は、セリフ入りで今では『じろりん』の宴会レパートリーになっている。

 いつも『沢竜二』さんの楽屋へ出入りして、小道具を用意したり、肩を揉んだりしていました。舞台の脚本・演出は『福田善之』さんでした。

 一ヶ月公演が終わって、次の月は『日劇ミュージックホール』に於いて『沢竜二』さん座長で『菊地剣友会』等が出演して『股旅ミュージカル』が企画されました。この舞台も『福田善之』さん脚本・演出でした。
 
 『日劇ミュージックホール』は上品な『ストリップ劇場』でショーやレビューのある大人の劇場でした。私は剣友会で出演するには経験が足りませんでしたので、『沢竜二』さんの『付き人』としてお手伝いする事になりました。

 ある時『沢竜二』さんから「ジローは、将来どんな役者になりたいんだ?」と、聞かれ、「僕はチャップリンに、になりたいんです。」と、答えたら「それは、すごい夢だなぁ・・」と、呆れられました。

 『日本テレビ総合タレント学院』の一年間が終わり、生徒はそれぞれの夢に向かって新たに歩み始めました。私は浅草松竹演芸場の『くるま座』という劇団に行く事にしました。

 その事を『沢竜二』さんに報告すると、「私は、大衆演劇に限界を感じて止めたのに、そんな場所では決して勉強にならないよ!」と、叱られた。又、『菊地剣友会』の『菊地竜志』先生からは、「これから、色んな企画を考えていたのに・・」と頭をゴツンとやられた。

 「こんなにも『じろりん』の事を考えて下さっていたのだ。」と、嬉しく思いましたが、只、生意気にも、まだ小さくマトマリたくなかっただけなのです。

沢竜二→ http://za01.com/profile/sawa.html

2006/12/11(月) 『じろりん』いったい何がしたいの?
 昭和四十七年『じろりん』が東京へ行った年に、それまで国交のなかった中国の『上海舞劇団』が文化交流の一環として来日し、『じろりん』が大道具をしていた『日生劇場』で一ヶ月公演をしました。

 それから一ヵ月後、時の総理大臣『田中角栄』が中国へ渡り『日中平和友好条約』が結ばれ、そのお土産に、上野動物園に二頭のパンダが届きました。

 当時は、政治的な事には全く興味がありませんでしたが、中国の人達と一ヶ月間仕事をした事が、『じろりん』には単純に中国という国に大変興味を持つキッカケになりました。

 その後、テレビの大道具に移ってからは、『日本テレビ総合タレント学院』へ週二日通うようになりましたが、中国に対する思いが覚めきれず、神田にある『中国語学院』にも週二日通うようになりました。

 が、それだけに飽き足らず、高校時代から憧れていた、ジャズドラムのレッスンに渋谷・YAMAHAの『ジョージ大塚・ドラム教室』へ、週一日のペースで通いました。

 ドラムは、ちょっと経験があったので、せめて初級を飛ばして中級からレッスンを受けようと思っていましたが、そこへジャズドラムで有名な主催者の『ジョージ大塚』さんが受付に偶然現われ、「君の顔では、初級だな!」と言われました。私は「顔で決めるのかよ!」とツッコミを入れたくなりました。レッスンの先生は弟子の人でした。

 花の東京で、夢の東京で、何か行動を起こしていないと、不安だったのです。本当に『じろりん』は、いったい何がしたかったのでしょう・・・

 その時の『じろりん』は、今で言う『レッスン貧乏さん』でした。とにかく、立ち止まらず何かしていないと、死んで仕舞うと思い込んでいる十九歳の秋でした。

↓ 中国の『上海舞劇団』をスタッフと共に、羽田空港で見送った。

2006/12/04(月) 憧れの『坂本九』ちゃん・・
 私は子供の頃から『坂本九』ちゃんの大ファンです。あの明るい歌声と、笑顔が大好きでした。
私が芸能界へ憧れを持つようになったのは、『九ちゃん』の影響があったのかも知れません。

 最近は、リバイバルで『九ちゃん』の歌がさかんに歌われていますが、私が東京にいた十年間、『九ちゃん』には、これといったヒット曲もなく、すでに「過去の人」というような存在になっていました。

 そんな中、憧れの『九ちゃん』に二回だけ会う機会がありました。一度目は、上京して二年目に私が『NETテレビ』(現・テレビ朝日)の大道具をしている時『日本の歌』という番組に出演された時のリハーサルで、『九ちゃん』を間近で見る事がありました。ちょっとマイナーな番組でした。

 二度目は、それから数年後、私がジャズダンスを始めていた頃NHKで『なつかしのポップス』という特番があり、九ちゃんがゲストで『G・Iブルース』という曲を唄われて、そのバックダンサーとして踊った時の二回だけでした。

 私の本心は、憧れの九ちゃんに「私はあなたの昔からのファンです」と言ってサインでも、もらいたかったのですが、当時の『九ちゃん』はもうひとつ、歌にパンチもなく時代にとり残された歌手という感じで、ファンであっても同じ芸能界という、同じ土俵の上に立つライバルとして「もう九ちゃんは、第一線を退いた過去の人なんだ」という思いがあり、高慢にも冷ややかに見ていたのかも知れません。

 その後、不運にもあの飛行機事故で亡くなられてしまってからは、一層みんなの記憶からどんどん消えていってしまいました。

 ところが、近年『ウルフルズ』の『明日があるさ』(九ちゃんのリバイバル曲)のヒットから再びみんなの記憶によみがえり、最近ではさかんに『九ちゃん』の話題がテレビにのぼるようになってきました。

 今、改めて九ちゃんの歌を聞くと、本当に暖かみがあり心にジンと染みてくるものを感じます。

 最近、老人ケアーセンターへボランティアで歌を唄いに行きますが、『九ちゃん』の『上を向いて歩こう』を必ず唄います。その時、入所されている方全員での大合唱になってしまいます。みんな、歌詞カードが無くても唄えるのです。

 私は、なぜか嬉しくて涙がこぼれそうになります。やっぱり『九ちゃん』は、みんなに愛されていたのだなぁーと感じずにはおれません。

 あらためて『九ちゃん』に一言送ります。「本当にありがとう!」 

2006/12/01(金) それって、スィング?
 あれは、大道具をしていたNETテレビ(現・テレビ朝日)のスタジオでした。『桂小金治』さんの『アフタヌーンショー』だったと思うのですが、その日は『豊岡豊とスイング・フェイス』というフルバンドが出演されるので、バンドの『ひな壇』をセットしました。

 バンドボーイの人が、譜面台やドラム等のセットを一人でやっていました。何時間もかかって、セットが終わり、その『ぼうや』(といっても、私より年上)が、リハーサルの時間までドラムの練習を始めました。

 その『ぼうや』さんとは、歌番組などでよく顔を合わせるので、顔は知っていました。

 『じろりん』は、高校時代、ブラスバンドでラテンやジャズの曲でドラムセットを叩いていましたので、側で見ていて、ドラムを叩きたくて仕方有りません。

 たまらず、厚かましくも、「僕にも、ちょっと叩かせて」と、言ってしまいました。すると「あーいいよ!」と気楽に言ってくれたので、ウキウキしながらドラムセットの前に座りました。

 スティックを握り、間借りの小さな部屋で小さな音で練習はしていましたが、本物のドラムセットを目の前に座るのは久しぶりでチョット興奮していました。高校時代に鳴らした自慢の腕でスィングのリズムを、ご機嫌に叩きました。

 すると、彼が「ちょっと待って、今のリズム、全然4ビートになっていないし、スィングしていないよ。」と言われました。少なからずショックは有りましたが、その後、彼が叩くスィングのリズムを改めてよく聞くと、しっかり4ビートになっていました。

 自分がジャズだと思って叩いていたスィングのリズムは、譜面どおりではあっても、「全くジャズになっていなかったのだ」と、始めて気が付きました。

 そして、譜面どおりという、四角四面の囲いの中に自分がいる事に気が付きました。音楽はもっと自由に楽しむ事だという事にも、気が付きました。


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