私事の毎日をボチボチ、マイペースで綴って行きます。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2006年9月
前の月 次の月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の絵日記ダイジェスト
2012/07/07 人権講座ライブ
2012/06/03 三左衛門堀・川まつり
2012/05/10 ラジオ関西「お元気ですか春名祐富子です」
2012/04/20 人生最後の日に!
2012/04/09 ホタテのロックンロール

直接移動: 20127 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 1 月  200612 11 10 9 8 7 月 

2006/09/23(土) 『クミコ』さんと『越路』さん
 先日、NHKの歌番組に『クミコ』という、歌手が出演していた。語るように歌い上げるその歌は、まるでドラマを見ているようで、私には、越路吹雪さんの再来かと思わせられました。

 関西人の私は、小さい頃から舞台といえば『吉本』か『松竹新喜劇』、歌といえば『歌謡曲』と、テレビの世界の芸能界しかしりませんでした。

 しかし、昭和47年に上京して日生劇場の大道具をしていた時、越路吹雪さんのロングリサイタルや、ミュージカルを何度も手伝わせて頂き、自分の知らないエンターテインメント(芸能)の世界があることを知りました。
 それは、私にとって大きなカルチャーショック(衝撃)でした。

 越路吹雪さんの舞台で感じたのは、(エンターテイナーというより)芸人のすさまじい生き様でした。

 当時、越路さんの年齢は、40歳代後半で円熟期だったのでしょうか、すばらしいステージでした。

 『アプローズ』というミュージカルでは若いダンサーと共に舞台狭しと、激しい振りを踊っておられました。

 私が驚いたのは、踊りが終わって舞台袖に引っ込んで来られた途端、倒れ込まるのです。待ち構えておられる二人の男性の付き人(ダンサー)に支えられないと動けないぐらいの状態で、毎回、引きずられるように、控え室へと向かわれておりました。

 その時、私は、てっきり越路さんは、どこか具合が悪いのだろうと思い込んでいました。

 私が後になって習ったジャズダンスで、30秒程の激しいダンスを踊っただけで、酸欠で死にそうになった経験をしてからは、あの時の越路さんの気持ちが少しは分かったような気がしました。

 そして次の出番では、やはり二人の付き人に支えられながら、舞台袖まで連れて来られ、いざ出番となると、手から野鳥を放ったように舞台へと羽ばたかれるのです。

 でも年齢から考えても、あの時のステージは毎回、自分の限界ギリギリに挑戦しておられたのでしょう、信じられない程の執念を感じました。

 又、『ロングリサイタル』では、5〜6人編成のコンボバンドで、シンプルなバック演奏でしたが、一曲、一曲、心にしみる歌声でした。

 特に『人生は過ぎゆく』という歌は、当時19歳の私には今まで味わったことのない衝撃で、身体が電流に打たれたように、背筋が『ゾクッ』としました。そして「歌にはこんなパワーがあるのか!」と、感じ入りました。

 惜しいことに、1980年、56歳という若さでお亡くなりになり、もう二度とあの感動は味わえないだろうと諦めていました。

 しかし、先日、何気なく見ていた、NHKの歌番組で『クミコ』という生き様を感じる歌手に出会いました、きっと彼女ならこの歌を唄い上げることが出来るのでは・・と思い、早速、関係者にメールでお尋ねしました。

 すると、もうすでに歌われているとのことで、私は何だか嬉しくなりました。

 越路吹雪さんを知らない若い方も、是非『クミコ』ご注目下さい。

2006/09/20(水) なんで「タケシ」が・・・
 昭和49年頃、浅草は非常に寂びれていました。

 私が浅草の松竹演芸場で芝居をしていた頃、浅草ロック(六区)の松竹関係の映画館や芝居小屋は(勉強の為)フリーパスで見る事が出来ました。
 
 何せその頃の出演料は、一日二回公演で三百円のギャラでした。ベテラン漫才師(Wけんじ、内海よしえ・桂子)クラスでも一日千円だと聞いていましたので仕方ないことです。(演芸場は勉強の場で、ギャラがもらえるだけで有り難いのです)

 公演が終わってフランス座という小屋に行った時、柄の悪そうな男がエレベーターボーイをしていました。それから、しばらくすると、その男がコンビを組んで演芸場の舞台で漫才を始めたのです。
 
 全く面白くないコンビで笑いはほとんどありませんでした。私は「こんな奴ら絶対に売れないだろう。」と思っていました。

 ある東京のテレビ番組のオーディションでたまたま一緒になりました。彼は、神経質そうに廊下で頭を抱えていました。それから、しばらく売れない下積みがあったかと思ったら、いつしか、大ブレイクして大人気者となっているではありませんか。

 しばらくの間、その男がなぜ売れているのか、そのセンスも才能も当時の私には全く分かりませんでした。(今でも、分かっていませんが・・・)

 その男こそ漫才ツービートの「ビートたけし」でありました。彼のおしゃべりは、話題の人物や政治・世相を切り口鋭く斬りまくり、まるで「たいしょく天さん」のようで、その口からでる言葉は毒ガスとも呼ばれました。

2006/09/16(土) 矢吹忠比古さん「じろりん再デビュー」も見ずに!
 ここに20数年前に貰った一枚の名刺がある。フジテレビジョン・ローカル営業部「矢吹忠比古」。東京で大変、可愛がって頂き応援して下さった方である。ホームページが出来た事を伝えようと、ネットで検索して見た。すると今スポーツ関係のトップ・スポーツ局長という肩書きになっていた。

 バラエティー番組「水10!」という番組で、プロ野球・当時ダイエーの王監督をパロディー化して大変、怒りを買ったコントがあった。王監督はもちろん、ダイエー球団、星野さん、まで抗議のコメントをしていた。

 その時に『矢吹忠比古スポーツ局長が福岡ドーム内の球団事務所を訪れ、佐藤賢二球団本部長に謝罪した。』と当時の記事があった。

 そして、他の記事を読み進めると、なんと昨年の5月に亡くなられていることが分かった。『じろりんの再デビュー』も見ずに・・・と思うと何故か残念でしかたがない。

 矢吹さんと関係があった方のホームページに・・『連休中だし、社員の方にも病名も病状も伝えていなかったみたいなので、多分あまり多くもない人たちが、お別れに来ているのだろうと思い、増上寺の中に入っていくと、あまりにすごい人にびっくりした。

 スポーツ局長だったので、野球の選手はじめ、K-1の選手、バレー、F-1レーサ、芸能人、上場会社の役員、タレント・・たぶん今後自分の人生で会う有名人を、2時間くらいの間にみんな見てしまった、みたいな雰囲気だった。

 いつもは華やかにテレビの画面に登場する人たちも、突然の訃報に対して、言葉もなく駆けつけたという感じだった。曙があの体にあわせた喪服を着ているのが、普通だったら笑える場面だけど、彼がKOされた時くらいのショックがあったので、ボーと見ていた。

 ボブ・サップもムサシもいた。1300人の「ゆかり」の人たちが集まった。でもきっとみんな「フジテレビスポーツ局長の矢吹さん」ではなく「人間・矢吹」を愛していたのだと思う。』と・・書いてあった。

 20数年前、私の事をいつも人に、 「こいつは便所草みたいな奴だから、どこでも生きて行けるし、何をしてでも食って行ける奴だ。」 と言われていた事を、今になって思い出します。

 あらためて、ご冥福をお祈りします。

2006/09/13(水) 「欽ちゃん」といえば「じろりん?」
 欽ちゃんと言えばジロリン?・・・ではなくて、あの坂上二郎さんです。

坂上二郎さんは、私が日本テレビのシャープスターアクション(ジェスチャーの番組)のアシスタントをしていた時のレギュラーで、白組のキャプテンとして出演しておられました。この番組は日本全国、北海道から沖縄までの公開録画でした。

普段はタレントさんと我々スタッフは移動の車や飛行機も別々なのですが、そのときたまたま何かの都合で、我々の移動のバスに乗っておられました。それを知ってか知らずか、アシスタント仲間が、私のことをネタにして、バスの中は大いに盛り上がっておりました。

「ジローは、あの時、こんな失敗をした・・・」とか「ジローさんがこんなくだらないことを言った・・・」などと言う会話がバスの中に響き渡っていました。フッと目の前の席を見ると、そこに坂上二郎さんが座っておられて、冷や汗をかいた事がありました。

坂上二郎さんは、「くもよみさん」のような人で、非常に飲み込みの良い人のように思いました。大変記憶力の良い人で、長いセリフでも、早く確実に覚えて消化されておりました。その後、「学校の先生」という長い長いセリフの入った歌をレコーディングされました。ちょっとホロッとくる曲でした。

昨年の秋、「アクションQの会」という番組同窓会が東京でありました。坂上二郎さんも病み上がりの身体をおして出席して下さいました。無理を言って携帯で一緒に写真を撮って頂きました。

2006/09/10(日) 振り向けば「欽ちゃん」
 「昭和49年頃の話です」  「エライ古い話しやなぁ」  「まぁ、聞いて」  「ほな、言うてみ・・」


 その頃、私は浅草の松竹演芸場で「デン助劇団」解散後に出来た「くるま座」という劇団で芝居をやっていました。

 その演芸場で二週間に一度、日本テレビの「なんでそうなるの!」の公開録画をしていました。その頃のコント55号は演芸界ではスーパースターで、勉強のため毎回収録を見学していたのでした。

 たまたま僕が楽屋の汚いトイレに入っていると、本番前の欽ちゃんが入って来ました。途中で止めるわけにもいかず、緊張しながら並んで小用を足したのが、一つの思い出です。

 その後、坂上二郎さんとは、テレビ番組でよく一緒にして頂きましたが、欽ちゃんとは一緒になることはありませんでした。

 欽ちゃんは、共演者を最大に生かす人で「をふとのべのみこと」のような人だと思います。人のいい所、おもしろい所をうまく引き出す事の出来る人だと感じました。

2006/09/07(木) 小林アトムからの電話
 今日、アトム君から電話があった。なんでも今度『本』を出すのだそうだ。

 その中に『じろりん』の事も書くそうで、失礼がないか、どうかという内容確認の電話だった。ちょっとばかり失礼はあるけれど、その方が面白いので、気にしないことにした。

 アトム君は姫路の出身で、私の後輩である。東京ではコンビを組んで、お笑いや、歌や芝居をやっていた。

 私が姫路に帰った後も、東京に残り榊原郁恵さんの「ピ−ターパン」や桑名正博さんのミュージカルにも出演している。最近では劇団四季の「ライオンキング」にブンバァという役で出ていた。

 今は、「四季」を止め、大阪のユニバーサルジャパンでミュージカルをしているそうだ。

 本の中で「姫路のじろりん」をアピールしておいてと最後に頼んで電話を切った。 

 でも「姫路のじろりん」といっても、こんな普通のオッサンをアピールしてもしょうがないかな・・・


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.