私事の毎日をボチボチ、マイペースで綴って行きます。
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2007/01/22(月) 浅草つれづれ草
 浅草は都会の外れのような街で、昔の風情が、そこかしこに見られ、歩くといろんな発見があり、飽きない街でした。

 店のウィンドウごしに見る、『手焼き煎餅』や『そば打ち』は、時間が経つのも忘れて眺めていました。『余荷解(よにげ)屋』という、バッタ品?の店では、いつも黒やまの人盛りで、店のおじさんの口上と、サクラのお客とのやりとりが面白く買う気もないのに、よく立ち寄っていました。

 芝居がはねて、先輩によく連れて行かれたのが『一六酒場』という、芸人さんがよく集まる居酒屋で、チュウハイ一杯とモツ煮込みで何時間も芝居談議に花を咲かせました。 

『神谷バー』という店では、『電気ブラン』という訳の分からないお酒を飲まされました。

 その頃は、何でも芸の肥やしになると聞かされでいました。ある時、怪しげな店の客引きが、「五百で遊べるから・・」と、シツコク絡んで来ました。ポケットには本当に五百円しか無かったのですが・・「五百円あれば大丈夫。」と自信を持って言うものですから、その客引きについて行きました。

 連れて行かれた店の中は、真っ暗で絵にかいたような怪しい店でした。五百円を払って席に着くとドリンクが運ばれてきました。ちょっとばかり話をして、本当に五百円しか持っていない事を伝えると、「今度は、もうちょっとお金を持っておいで!」と、すぐさま放り出されました。

 その時の『じろりん』は、好奇心一杯、恐いものしらずで、向こう見ずの二十歳でした。

2007/01/11(木) どこへ行った、お客さん!
昭和四十八年頃の浅草は灯が消えたような寂しさでした。歴代のお笑い芸人を生み出した演芸と芝居の『浅草松竹演芸場』も、土日は賑やかですが、平日は閑散としていました。

 私が所属する劇団『くるま座』と、『風林火山』という人情時代劇の劇団で十日ごと、交互にトリをとっていました。

 劇団『くるま座』の座長は『橋敬』という人で、座員には『アングラ演劇』出身の人が多く、『日本テレビタレント学院』からは、『じろりん』と『ケンちゃん』(栗原謙次君)が参加しました。時事ネタやブラックユーモアの不思議な芝居をしていました。

 その頃、よく演芸で出演されていた(漫談の)『泉ピン子』さん(漫才の)『星セント・ルイス』さんは若手で売り出し中でした。

 『ツービート』の『ビートたけし』は、まだストリップ劇場の『フランス座』で下積みをしておりました。今では映画の『黒澤明』監督と並ぶ程の巨匠になっておられるので驚きです。

 年末のある日、少ないお客さんが一人帰り、又一人帰り、とうとう一人になってしまい、最後のお客さんは帰るに帰れず、我々劇団員とお客さんの我慢くらべのような芝居になってしまった事があります。

 又、ある時は夢中で芝居をやっていると、客席のドアが開いて「あんた達、まだやるの?」と声が客席の後ろから聞こえました。誰かと思ったら、掃除のオバサンでした。そして、よく見ると客席には一人のお客さんも居られませんでした。

 一日二回公演をして、ギャラが三百円(座長は五百円)で、生計は牛乳配達で立てていました。当然、将来の保証は何も無く、未来のスターを夢に、それだけを頼りに無我夢中で一日一日を送っていました。


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