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2009/10/23(金)
座右のおふでさき
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先日、道友社のKさんからTELがあり、天理時報の『座右のおふでさき』というコラムの原稿を依頼された。
思いつくままに、書いてメールで送った。文字数が多くなってしまっていたので、加筆・訂正をして10月25日号の時報に掲載して下さった。
元の原稿を、ここに掲載します。
「座右のおふでさき
このたすけ百十五才定命と 定めつけたい神の一条 三・100
高校の卒業式の次の日、子供の頃からあこがれていた芸能人になるため、夢と希望をいっぱい乗せた夜行列車は東京へと向かっていた。 「生き馬の目を抜く」と言われる東京、「でも私には親神様がついていて下さる。」と思えば、何の不安もなく、三年たてば大スターと、信じて疑わなかった。
日生劇場の大道具を皮切りに、新宿コマ劇場での大部屋、浅草松竹演芸場の軽演劇、コント・漫才コンビ、テレビアシスタントと、いろいろ経験したが、スターという扉はあまりにも大きく重たかった。
そして十年、会長を兄貴に譲ってから、夫婦で布教に出ていた親父が「もう一箇所、教会を持つ。」と大教会長さんと約束し、心定めをしてから間もなく出直してしまった。
私とは関係のない心定めであったが、一人残された母親の姿を見たとき涙がボロボロとこぼれてきた。「自分の思いや都合を全て捨てて、姫路へ帰ろう。」と決心をした。もう二度と東京へ来ることもないだろうと、未練も後ろ髪も捨てて帰って来た。
昔の仲間がテレビで活躍する姿を見ても自分とは関係の無い世界と、見て見ぬふりをしていた。
五十歳を過ぎた頃、東京時代の後輩役者・井之上隆志君が教会へ会いに来てくれた。「ジローさん、又やりましょうよ!」という言葉を聞いて、「わかった、七十歳になったら、再デビューするよ。」と半分冗談で約束してしまった。
「四十・五十は鼻たれ小僧、六十・七十は花ならつぼみ、八十・九十働き盛り」という言葉があります。
今、ギター片手に老人施設・拘置所・地域のイベント等で歌って喜んで頂いている。定命の百十五歳まで生き生きと、現役の用木として陽気を振りまいて行きたい。」
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